文政一一年六月の大洪水

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 文政一一年(一八二八)は、五月から七月までたびたび大雨洪水に見舞われたが、とくに六月一六日の被害は大きく、六~七月には稲虫も発生するという災害年であった。六月二〇日には、杉尾十右衛門が、手永ごとに五~六月の洪水被害の詳しい調査報告書を提出するよう命じた。そのひな形は次の様式であった。
 
  一 居家 何十何軒
     ただし、本転・半転・流失等の訳記し候事
  一 稲家・牛家 何十何軒
  一 土蔵 何ヶ所
  (中略)
  一 田 何十何町何畝何歩
     ただし、水押・川成・砂入共に
  一 畠 何十何町何畝何歩
     ただし、右同断
  (以下略)

 
 右の記載内容からみて、手永単位となると、家であれば何十軒という単位、田畠であれば何十何町という単位で被害をこうむったことが予測されている、非常に大きな水害であったことがわかる(調査対象は、塩浜・土手・石垣・往来・井樋唐戸・倒木などに及んだ)。
 この年の被害は宇佐郡でも大きかったとみえ、幕府は、「西国筋御料所村々荒地起こし返しならびに免直しその外見分」、「豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向国村々荒地起返ならびに免直しその外見分吟味」を命じて、勘定役二・普請役二・手付一を西国・九州に派遣した。ただし、西国筋の調査といっても、大坂を六月一四日に出発し、瀬戸内海を船で西に向かい、六月三〇日に下関で一泊するまでは、宿泊のための上陸はあったとしても調査するゆとりがない日程だったので、九州の視察が目的であったと考えられる。
 本市に関わる日程は、小倉に七月一日に泊まった一行が、翌二日には大橋で昼休みをとり、同日は八屋に泊まるまでの一泊二日で、大橋はもちろん、通路沿いの村々ではその準備が大変であった。大庄屋には正装して内証での幕府役人との面会が命じられ、庄屋の中から案内役を出した。六月二五日には一行の日程が村方に伝えられたから、まさにその準備にかかった時点での大洪水であって、幕府役人は「荒地起こし返し」どころか、さらにひどい荒地を見分しにきたようなものであった。