大橋の大火

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 幕府役人の応接も無事終わり、ほっとしたのも束の間のことであった。八月九日の夜、大橋町は大火に見舞われたのである。当時大橋町・同村の総居家数三七三軒であったが、そのうちの一三九軒、全体の実に三七・三%に及ぶ人家を焼失し、ほかにも、表10に示すように、四九軒の稲屋のほかに、土蔵五、馬屋二二、寺院三、蔵三などを類焼した(図16参照)。大橋村は行事川に面しており、支流もあるが、「運び方の便利」が悪かったとあり、また「家並の軒続き」と強い風が被害を大きくしたのである。
 
表10 文政11年大橋村(大橋町を含む)の大火による損害状況
皆損本畠1町5反余
新地田数12町5反余
新地畠数8反余
合計14町8反余
類焼者持ち高281石3967
田畠畝数22町5反2畝19.5歩
物成高189石7497
村民の損害居家139軒
稲屋49軒
土蔵5軒
馬屋22軒
寺院3軒
庫裡2軒
鐘堂1
2
1
瓦葺3戸前の蔵 1軒長12間×横3間
草葺2戸前の蔵 1軒長2間×横3間
草葺4戸前の蔵 1軒 ①長11間×横3間
門       2ヵ所 
番所      1間長3間×横2間
道具一式焼失 
文政11子年の国作大庄屋「御用日記」より作成
(注)①草戸の4戸前は、計り蔵・土穂蔵・菰蔵・反別蔵の4戸である。

図16 幕末の村絵図で推定する文政の大火
図16 幕末の村絵図で推定する文政の大火

 この火災は、仮に幕末の絵図で推定すると、図16に示すような広い範囲を焼失させたようである。この日は南からの強い風が吹いていたため、南横町川越(図中のA)の西側本町筋から三軒目の吉太郎家に発した火は、またたくまに北東に燃え広がって、本町両側の家々を三宿口、茶屋脇まで焼き尽くし(同図のB、茶屋は◎印付近にあった)、さらに北に燃え広がって行事川筋の蔵までを焼き尽くした(同C)。西側は本町筋を焼き尽くして(同D)、南側は高札場脇(幕末の高札場は★印の位置)、北側は旧縁寺門脇(同Eの左端)で鎮火した。ただし、この絵図は再建後の大橋地区を表すことから、本図に示す類焼範囲はあくまで推定の域を出ないものである。なお、この大火で類焼した寺院は三となっている。火災の広がりからみて、浄蓮寺と禅興寺は焼失したと考えられるが、旧縁寺は類焼しなかったので、残る一寺院は焼失後廃寺となった可能性がある。なお、E・Fの部分に関しては何も記載していないので、焼け残ったとも考えられる。また、Dの範囲についても記録はあいまいで、西側は本町筋を焼き尽くしたと記しながら、その南側は高札場脇までとするので、Dの左半分が焼失していなければ、Fの範囲も焼失していないことになる。ただ、焼失家屋は全体の三分の一であるから、かなりの部分が焼け残ったわけで、Dの左半分とE・Fの地域は焼け残った可能性がある。
 この火事で家財一切を失った人々に対して、「焼け残り町家頭立ち候者」七人が米五七俵を寄進したが、それを含めた食料もやがて底をつき(一日に飯料として米六俵を必要とした)、八月には(日付け不明)、大橋町・村の庄屋伝蔵と太四郎が連名で、藩に対し札三〇貫目を年賦償還で拝借したいと申し出た。この申し出は許可されたが、なお「御作方」上納に差し支えるとして、郡奉行の森貞右衛門がさらに七貫目を「私手許(もと)にて拝借」し、無利子で年賦返済させたいと申し出ている。なお、この大火で稲をはじめとする農作物も焼失または立ち枯れし、年貢米一八九石余を含めた収穫が皆無となった。ところが、国作大庄屋の「御用日記」には、大橋村の減免に関する記事はなく、九月二五日には沓尾・大橋蔵の見分が済み、同夜大橋に宿泊した役人によって「御免極(ごめんぎめ)」(税率の確定)が行われた。一切を失った農民に年貢上納は不可能であったと考えられるが、どういう扱いになったか不明である。ただし、九月二七日の記事に「今日御検者中、川成ならびに検見帳御読み合わせ」とあるので、次に紹介する八月の大風の影響とあわせて検見が行われ、減免されたのではないだろうか。