まず八月九日の夜九つ時(午後一一時から午前一時の間)頃から強い東風が吹き出した、七つ時(午前三~五時)に強い南風に変わった。明け六つ時(同五~七時)頃からしだいに弱まり、四つ時(同九~一一時)には吹き止んだ。農村の被害は、表11に示すように、小倉藩全体で、死者七三、死牛馬二五、倒壊家屋は半壊を含め六八七〇、厩・稲屋・土蔵などの倒壊は同じく三七五九、漁船の流失等一九五艘という大きなものであった。京都郡では死者一一名、仲津郡でも五名を記録している。なお、この大風による福岡藩全郡の死者は三二四人、死牛馬は一一一、倒壊家屋は一万六一六二軒であった(高原(謙)家文書「風災一件」)。福岡藩が小倉藩の三倍以上の規模を有する藩であることを考慮すると、風の吹きようにもよるが、小倉藩の死者七三という数は比較的少なく、逆に倒壊家屋は比較的多かったといえよう。
二度目は、最初の大風被害の後始末もまだ済まないと思われる二四日にやってきた。五つ半(午前九時)頃から吹き始めた大風が、四つ半には強い西風に変わり、やがて北風に変わって止んだという。この大風による死者は、先の大風のちょうど四倍あたる二八二人に及んだが、牛馬の被害はわずか一であった。死者が多かった理由は不明であるが、最初の大風で屋台骨がゆるんだ家屋も多かったと考えられる。まだ家々の再建も進んでいなかっただろうから、最初の大風で倒壊した家屋の住民たちは、親戚などの家に身を寄せたり、野宿に近い生活をしていたのではないだろうか。そこに再び大風が襲ってきたことから、人的被害が大きくなったと考えられる。なお、二度目の大風被害は、家屋の倒壊が二九八八、厩・稲屋などの倒壊が一一九五、茶屋などの倒壊が一一四、漁船の流失が二四一であった。最初に比べて倒壊家屋数が少ないのは、弱体な家屋はすでに先の大風で倒壊してしまったからであろう。大火事で家を失っていた大橋村・同町の住民にとって、まさにこの年は「踏んだり蹴ったり」ともいえるきびしい年であった。
表11 文政11年8月9日大風による被害状況 | |||||||
郡名 | 企救 | 田川 | 京都 | 仲津 | 築城 | 上毛 | 合計 |
内容 | |||||||
破損居家 | 2,329 | 2,343 | 765 | 797 | 403 | 233 | 6,870軒 |
破損稲家・牛馬家・土蔵・物置 | 1,167 | 1,035 | 586 | 363 | 332 | 276 | 3,759軒 |
破・流船 | 145 | 3 | 43 | 4 | 195艘 | ||
倒木 | 12,039 | 16,097 | 3,573 | 3,194 | 5,059 | 2,311 | 42,273本 |
怪我人 | 20 | 97 | 32 | 14 | 7 | 5 | 175人 |
死人 | 16 | 37 | 11 | 5 | 1 | 3 | 73人 |
死牛馬 | 13 | 8 | 3 | 1 | 25疋 | ||
『中村平左衛門日記』より作成 |