天保七年の凶作

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 天保期(一八三〇~四四)は、気候不順の時代で、とくに同四年に始まった飢饉は、のちに「七年飢渇(しちねんけかち)」といわれたように、七年という長期にわたって不作、凶作が続いた。これが江戸時代三大飢饉の一つにあげられる天保の飢饉で、大雨洪水、冷夏、虫害などを原因とする。米価が高騰して、江戸や大坂などの大都市では打ちこわしが横行し、大坂では、幕政の腐敗を憤った旧幕臣の大塩平八郎が、幕府に対して反乱を起こす事件(大塩の乱)のきっかけとなった飢饉である。
 国作大庄屋「御用日記」においても、天保期になると盗難や出奔、捨て子の記事ががぜん増えてくる。社会の変化や藩による年貢などの収奪によって農民の生活が急迫していたのに、気候不順による収入減がこれに輪をかけ、出奔や捨て子しか生き延びる手だてがなくなったものと考えられる。
 なかでも天保七年(一八三六)は雨天が多く、農民の生活の糧である麦作が非常に悪かった。とくに六月から七月にかけての多雨は稲虫を発生させ、米もまた凶作となった。藩は全郡に鯨油を配布したが、個々の農家に割りつけると、津田手永の場合で見ると一反につきわずか一合一勺余にしかならなかった。被害の多い田を優先したにしても、ほとんど役に立たない量であったと考えられる。
 収穫減が見込まれる中で、藩の役人と大庄屋の間でこの年の年貢についての話し合いがもたれた。しかしながら、当時は藩財政が著しく窮迫しており、九月二〇日の郡屋における会議では、減税したくない役人と減税を主張する大庄屋が激しく対立し、一時は協議が決裂したほどであった。結局のところは、以後の協議断絶を恐れた大庄屋が折れて協議を再開した。藩の役人もまた反省したのであろう、企救郡の場合、要求高の八七%の減税をかちとり、残る一三%も拝借の扱いにすることを認めさせ、その分は囲い籾をあてることになった。京都・仲津両郡がどの程度かちとったか不明であるが、企救郡の例を見ても、一定の減税額をかちとったのではないだろうか。なお、この年には小倉において騒動が起こり、開墾地の曽根でも不穏な動きがあった。これにより、領民一般の、とくにその日暮らしや貧しい階層が食糧難に苦しんだことが推定される。
 天保七年の大凶作は、翌八年春に飢饉状況を生み出したので、藩は、とくに貧民に対し、唐芋、鰯、昆布などを支給した。疫病も流行し、「御用日記」にも、四月、六月の疫病退散の祈祷執行の記録を掲げている。出奔と捨て子は、他の年に例を見ないほどの多数を記録した。この飢饉や疫病による死者数は不明であるが、多くの農民が住み慣れた村から多数逃げ出さざるをえないほどの大きな飢饉であった。