表12は、取水口・排水口ごとに、寸法が長い樋から順に書き上げたものである。井出樋では、最も長いものは沖新地の一一間(約二〇メートル)、最も短い樋でも秋丸の二間(三・六メートル)で、かなり長い導水管であったことがわかる。
表12 史料から確認できる本市域内にあった樋(取水口・排水口) | |||||
設置場所 | 樋の種類 | 長さ | 内法 | 備考 | |
横 | 高さ | ||||
(間) | (尺・寸) | (尺・寸) | |||
沖新地 | 井出樋1艘 | 11.0 | 1.8 | 1.5 | 口戸あり |
寺畦前小部ノ田 | 井出樋1艘 | 7.5 | 2.5 | 2.0 | 口戸あり |
溝添 | 井出樋1艘 | 7.0 | 2.0 | 1.6 | 口戸あり |
高畠 | 井出樋1艘 | 7.0 | 1.3 | 1.0 | 口戸あり |
法師丸 | 井出樋1艘 ① | 6.0 | 2.3 | 1.2 | 口戸あり |
秋丸 | 井出樋1艘 | 2.0 | 2.0 | 1.5 | |
住ノ江行司口 | 汐樋1艘 | 11.0 | 1.5 | 2.2 | 松戸あり |
沖新地 | 汐樋1艘 ② | 7.5 | 3.1 | 2.5 | 内外ともに戸あり、尻戸は招き |
西ノ口 | 汐樋1艘 | 4.0 | 2.0 | 1.5 | 口戸・尻戸あり |
寺畦前小部ノ田 | 汐吐樋1艘 | 2.0 | 2.0 | 2.0 | 尻戸は招き |
にんけ | 水吐樋1艘 | 2.0 | 1.3 | 0.8 | 口戸あり |
国作手永大庄屋「御用日記」より作成 |
(注) | ①この樋は長さ6間・内法横1尺1寸・高さ1尺2寸であったが、内法が狭く水通が悪いので寸法増を願い出た。 | |||||
②この樋は長さ8間半・内法の高さ2尺6寸であったが、長さを1間減らし、内法は高横ともに5寸増を願い出た。 |
樋の内法(うちのり)では、寺畦前小部ノ田の横二尺五寸(約七六センチメートル)・高さ二尺(約六一センチメートル)が最も大きく、高畠の一尺三寸(約四〇センチメートル)・高さ一尺(約三〇センチメートル)が最も小さい。以下メートル法で表すと、汐樋の長さは約二〇メートルから七メートルであり、内法は沖新地の九四センチメートル×七六センチメートルが最も大きく、住ノ江行事口の四六センチメートル×六七センチメートルが最も小さい。比較的汐樋の口径が大きいといえよう。なお、沖新地の井出樋・汐樋は、高潮や洪水の被害によって破壊され流失することが多く、定期の交換を待たずに再設置されることが多かった。また、樋の入り口には取水量調節のための「口戸」を設けたが、出口の「尻戸」は必ずしも設けなかったようで、表12でも西ノ口と沖新地だけにあった。「尻戸」は、おそらく逆流を防ぐための施設で、通常は設置する必要がなかったと考えられる。
また、法師丸では、天明七年(一七八七)に、「法師丸井出口川原堀川」、「大手切口」、「砂除け」、「内坪」の四ヵ所で溝浚えの工事を行った。これによると、井出口川原堀川の規模は長さ一三〇間(二三四メートル)・横幅三間(五・四メートル)・高さ九〇センチメートルで一九五坪の広さがあり、以下メートル法で記すと、大手切口が地置五・四メートル、長さ九メートル、高さ三・六メートル、築留一・八メートル、坪にして二〇坪、砂除けが長さ一八〇メートル、横幅二・七メートル、深さ一・八メートル、一五坪、内坪が長さ三六〇メートルで、それぞれの工事に必要な夫数は、三九〇、一八〇、一二〇、一〇〇人、合計七九〇人であった。これによって法師丸が相当大きな井出であったことが知られる。
なお、文政六年(一八二三)九月、新地の水かかりが悪いという理由から、今川土手に新井出溝を設ける願書が出され、翌年春に工事が行われた。そのほか、史料上に現れる樋としては、矢留村「車田」の「渡樋」、竹並村の「さや木井出樋」がある。「渡樋」はどのような樋かはっきりしないが、脇から取水する際の樋ではないかと考えている。