池樋と立樋

390 ~ 392 / 898ページ
 池に設けられた樋は、「立樋」、「池樋」の二種類である。「立樋」は「竪樋」とも書き、池の内側の土手に設けた取水口で、「蜂の子」という取水のための穴を、池の規模によって五~九個あけていた。蜂の子には通常栓(揺木・栗木)をしておき、この栓を移動させて取水量を増減させるが、渇水時には一番下の栓まで抜くことになる。また、上部の穴には栓をせず、余分な水を常に流出させて、満水となった池水が土手からあふれ出ないように工夫していた。これに対して「池樋」は、「立樋」と結合させて池の水を土手下の井出へ導いた施設と考えられる(「底樋」と同じものか)。
 本市域内の池で判明している池樋・立樋とその規模は、表13に示すとおりである。なお、竹並村の長養池立樋、矢留村の松田池樋は、天保三年(一八三二)五月に、井樋方から新樋との交換を命じられた。ところが村では、両池ともに、水貯めこみの時期であること、寒水(冬期の水)から貯めこむ方式の池であるため、いったん放水すると再び貯めこむのが困難であることの二点を理由にあげて、交換時期の延期を提案するとともに古樋代を上納したいと申し出ている。定期の樋交換に際し、村の都合によって代金を支払って古樋を買い取り、交換時期をずらすことが認められていたわけである。また、矢留村の池(裏ノ池か)は、文化一三年(一八一六)年閏八月に郡中普請を行ったし、長養池・泉池の池樋は、天保八年に石製の樋と交換した。なお、松田池は、文化一三年五月二四日、前日からの大雨によって土手が一六間(約三〇メートル)にわたって決壊し(「抜落」は一七間と記す)、一町六反余に及ぶ本田が水損した。
 
表13 史料から確認できる本市域内の池樋・立樋
池名と取水した村名樋の種類長さ内法①蜂子
(間・尺)(尺・寸)
裏ノ池 矢留村池樋1艘15.05.0 
立樋1艘  ②0.90.59
立樋1艘  ③2.00.59
泉池  竹並村  ④池樋1艘17.01.5 
長養池 竹並村立樋1艘  ⑤   
池樋1艘17.01.0 
松田池 矢留村池樋1艘  ⑥   
国作手永大庄屋「御用日記」より作成
(注)① 池の場合、樋の内法は立・横同寸法である。
② 文化12年にこの寸法に変更。それ以前は長さ7尺であった。
  ただし、内法・蜂の子は変更しなかった。
③ 池の東側に設けていた樋。文化12年にこの寸法に変更。
  それ以前は長さ1間、蜂の子七つで、内法は変更しなかった。
④ 節丸池は節丸村にあった池。
⑤・⑥ 規模などは不明。

 きびしい渇水期には水争いや盗水が生じた。本市域内農村における水論は発見できなかったが、祓川からの取水をめぐる田中村と草場村の水論が、弘化二年(一八四五)、万延二年(一八六一)に確認できる。文政四年(一八二一)七月に、国作大庄屋の貞右衛門が仲介に入って、ひそかに設けた溝を埋めさせて騒ぎを静めた水論も、元永手永と平島手永間の水論なので、おそらく祓川からの取水権をめぐる争いと考えられる。なお、この年は渇水年で盗水もあり、ひそかに蜂の子を抜くために池に入った農民が、蜂の子に流れこむ激しい水流に巻き込まれて溺死するという事件も発生した。
 また、池樋交換に関して、郡役所が文化一二年八月に指令を出している。その内容は、秋に交換する樋は「水落後」に至急申し出ること、その他の樋(寒水をため込む必要がない場合)は願書が若干遅れてもよく、池樋については支障がある場合だけ願書を出すこと、秋の彼岸中に古樋を掘り出し井樋方役人の廻郡を待つこと、井樋方からの新樋支給が遅れたにしても冬の内に据え替えること、古樋掘り出しが翌年春にずれこみ据え替えが秋になったりすると、井樋方との交渉が非常に困難であること、井樋方では急を要する樋から製作に取りかかることであった。この指令は、この時期、井樋の交換が増大し、井樋方でも対応が困難となったことを示すのではないだろうか。