言うまでもなく、機械化以前の農村社会において、人口が減少するということは、村にとって文字通り死活問題であった。前近代の村人は、ただ家族の労働力として完結するのでなく、いわば「村の労働力」としての役割があった。また、年貢は村請け、つまり納税主体はあくまで村であり、村人の中に不納者がいれば、その欠損部分は村全体で負担しなければならなかった。「相互扶助」と言えば聞こえは良いのだが、この制度は支配者側の論理に適ったもので、支配される側にとっては、必ずしも良い仕組みではなかった。特に人口が減少した場合、年貢の村請制は著しく負の方向に作用する。すなわち、人口減少→無主地の発生(農地荒廃)→無主地年貢の村民転嫁(負担増加)→生活窮乏→潰百姓・出奔者の発生→人口減少→無主地の増加、といった「負の循環」から抜け出せなくなり、雪だるま式に村の荒廃が進むのである。
いまだ低水準の人口で推移していたと思われる文政年間、小倉藩の農村がどのような状況下にあったか、次の史料からその一端を窺うことができる。
申し上ぐる演説書覚 | ||
一 | 、仲津郡の儀は近年格別困窮仕り候所より、毎春御田地御根付方甚だ当惑仕り候、別して去秋凶作出来、仕り兼候に付きては、村々欠け落ち百姓ならびに潰百姓等多く、当春御根付方必止(至)の差し支えに罷り成り候、これに依り亡所村々は是非新百姓仕据え仕り申さずては御田地余り地の分御根付方出来仕らず、大切なる御田地荒し候様罷り成り候ては恐れ多き次第に付き、宜しく御勘弁下し置かれ、新百姓仕据料年賦拝借願いの通り仰せ付けられ下し置かれ候はば、重畳有り難く存じ奉り候、尤も此節拝借御願い申し上げ候五貫目にては手永々々共に引き足り候義にては御座無く候得共、此上の義は何分共取り計らい仕り、御根付方出来候様仕りたく、何卒御慈悲の上を以って願いの通り仰せ付けられ下し置かれ候様願い奉り候、仍て演説書を以って御歎き申し上げ候、已上 | |
戌二月 | 大庄屋五人連名 | |
御両役様へ当る | ||
(国作手永大庄屋文政九年日記一月二九日条) |
「亡所村々」とは人手不足の村のことである。「仲津郡の村々は近年困窮しており、毎年田植え時期にどうしたものかと困っている。その上、昨年(文政八年[[一八二五]])の凶作によって逃げ出したり、破産したりする百姓が多く、今年の春は田植えが大いに差し支えたものだ。そのため人手不足の村では、「新百姓」を仕据えてもらわなければ余った土地が耕作できず、大切な田地が荒れてしまう。それで、新百姓が入植する費用として五貫目を拝借させていただきたい」といった要旨である。
新百姓の仕据料五貫目の拝借を嘆願するものであり、大袈裟な表現があることも考慮しなければならないが、当時の農村が抱えていた人口減少、農地荒廃という問題と、小倉藩においては、それを新百姓の入植という方策で対処したことが端的に表されている。水帳(検地帳)に登録された田畑は、たとえそれが耕作されていなくても年貢は賦課され続けるのであり、小倉藩では再検地など行わなかったので、雪だるま式に膨らむ負の連鎖を断ち切るには耕作人口を増やすしか手段がなかったのである(ただ、新百姓の多くに被差別身分の人々が充てられたため、入植の過程で庶民レベルにおける差別意識が強化・強調され、彼らに一層の苦難を強いることになってしまった一面があることを忘れてはならない)。
いずれにしても、荒廃した農地の復興という意味において、新百姓の仕据えがどの程度の効果をあげたのか、具体的な検討はなされていないが、幕末期、京都郡・仲津郡域で盛んに干拓が行われていく、その一方で、既存農地の荒廃という問題が存在したことをふまえておきたい。その復興策が成果をあげた、次のステップとしての干拓なのか、復興策の限界を知り、政策転換としての干拓なのか、今後の検討課題である。