行事川・今川・金屋川・祓川の河口干拓

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 勿論、干拓によって農地を拡大することが、幕末以前に行われていなかったというのではない。穏やかな周防灘沿岸には遠浅の海岸が多く、近世初頭から単発的に干拓事業が行われてきた。よく知られたところでは、細川忠興が自分の乗った馬の足跡を目印に土手を築くように命じたという、企救郡曽根の干拓がある(中村平左衛門「郡典私志」)。現行橋市域で言えば、行事川(長峡川)・金屋川(江尻川)・今川・祓川の四河川は、比較的近接した場所で海に注ぐことから、それぞれの沖積によって、広大な遠浅の海が河口部に広がっていた。そして、そこは近世を通じて、陸地に近い所から順次干拓され、耕地に改変されてきたのである。
 試みに京都郡行事村、仲津郡今井村・大橋村・金屋村の小字、通称地名から、干拓に出来すると思われるものを拾い上げると次のとおりである。
 
○行事村/寅開、新開
○大橋村/寅新地、新開、新地、内新地、壱番、弐番、三番、四番、沖新地、大新地、庄屋新地、北ノ新地
○金屋村/沖手開、虎開、卯新地、辰
○今井村/永新地、タボ新地、荒新地、コブ新地、上ノ新地、文久浦、寺新地、西唐戸、文久南唐戸、文久北唐戸、鶴新地、内唐戸、内新開、文久新地、平井新地、清兵衛新地
(『福岡県史資料』第十輯、「行橋町土地宝典」、「京都郡文久新地築立図」)

 
 これら干拓の内、京都郡行事村の干拓については、残念ながら記述できるほどの史料が今のところないので、仲津郡三カ村の干拓について、可能な範囲で解説してみた
写真4 空から見た干拓地(平成16年撮影)
写真4 空から見た干拓地(平成16年撮影)