(略)今川筋も以前は今の大野道の下宮の上の所より川筋西北へ流れ、今の宮の西北を通り、金剛丸口の方へ流れ、今の川合地の前を通り、金剛丸の北を通り、今の川田と申所、夫より観音堂の東を通りて、今の御茶屋の東脇より、新地の方へ流れ出たる也、貞享年中田中條右衛門殿筋奉行の時、今の川筋へ付替りたる也(略)
貞享年間(一六八四~八八)より四〇年程前の正保年間(一六四四~四八)に幕府へ提出された豊前国絵図を見ると、天生田村から大野井村までは明らかに後の今川とは河道が異なっていて、現今川小学校付近を通り、宝山村と寺畔村の間を通っていることが分かる。つまり現在の今川より西を流れていたという点では「豊橋柱」の記述に通じる。しかし、国絵図といっても現代のような精密な地図ではないので、大橋村付近で「豊橋柱」でいうような河道をたどっていたかを読み取ることはできない。
仮にその記述が正しいとすると、かつての今川は現在の行橋市中央公民館付近から東大橋方面へ流れていたことになるが、後の大橋村における干拓の歴史を考えると、この大規模な河道変更は考えられなくもない。「豊橋柱」でいうような旧河道から、現在の河道へ流れを変えれば、今川と行事川(長峡川)との間には広大な洲が現れたことであろう。
いずれにしても大橋村の干拓は、今川・行事川の沖積地で、時代を追って順次海へ向け延ばされていったものである。
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