想定される開発の順序

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 現在、旧大橋村は町名変更によって、かつての小字が公的には使われなくなったが、昭和初年作成「行橋町土地宝典」など見ると、前述した新地由来の小字の位置が確認できる。
 そこで、大橋村から北東方向へ延びる新地は、集落に近い方から古い開発地と見て、試みに開発順序を想定してみると、①新開→②内新地→③壱番・二番・三番・四番→④庄屋新地→⑤大新地→⑥沖新地→⑦寅新地、となる。
 ①の新開は現中央一丁目付近であり、「豊橋柱」でいう旧今川の河道の位置とかなり重複しそうである。河道変更が本当にあったとすれば、使われなくなった旧河道の内、最も今川に近く水利の良い場所が、最初に耕地として開かれたことが想定できないだろうか。②の内新地は、現中山グラウンドから東側、大橋一丁目・二丁目付近である。これも①新開と同様、伝・旧今川河道に重複する。開発順序は①より遅いとみたが、河道変更後のほぼ同時期であることも想定される。②を取り囲むようにある③壱番・二番・三番・四番は、土地の開発が行われた時に付された区画番号が、そのまま小字として残ったものだろう。④は、文字通りとれば庄屋が開いた新地ということになる。⑤大新地および⑥沖新地は、「行橋町土地宝典」を見る限り、①~④に比べて区画が整然としている。これは開発年代が新しいことにより相続・売買などによる土地分割が進んでいないことと、干拓に係る土木技術の進展を示さないだろうか。
図18 旧仲津郡大橋村・金屋村・今井村の干拓
図18 旧仲津郡大橋村・金屋村・今井村の干拓
(国土地理院1/2万5千図「行橋」「蓑島」より作成)

 「豊橋柱」の記述が正しいと仮定した場合の想像だが、これら新地の内①~④の新地は、貞享~安永年間(一七世紀後半~一八世紀後半)の、およそ一〇〇年間に開かれたものと考えられる。下限を安永年間としたのは、大新地の北東(海側)、⑤沖新地が安永の開発というからである。