大新地・沖新地

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 沖新地の開発年代について、後年の史料には次のとおり記されている。
 
(略)
同村(大橋村)新地出屋敷
但、年暦能く相分り申さず、当申年迄凡六拾四年位にも相成り候趣申し伝え御座候、左候えば安永年中仕据え仕り候儀と存じ奉り候
、大橋村沖新地、安永二巳年開発仕候
(国作手永大庄屋天保七年日記五月二一日条)

 
 天保七年(一八三六)の史料であるから、そのまま信用することは慎むべきであろうが、沖新地の干拓は安永二年(一七七三)に行われたというのである。前段の新地出屋敷は、後段の沖新地開発の際に建設されたと考えるのが自然であろう。安永年間当時の史料が残っておらず、検証の方法はないが、大橋村地先新開の年代的な推移を考える上で参考となる。
 ところで、大新地沖新地は海面に近く、水捌けが悪いため、洪水となれば一面水浸しとなった。
 
願い奉る口上覚
、唐戸壱ケ所
   長弐間
 内 竪六尺三寸
   横弐間
   上ワ戸壱尺六寸
   長弐間
右は降雨・洪水の節、当村大新地・沖新地反甫一面満水仕り相捌け申さず候間、此度沖新地土手式の内へ新規唐戸一ケ所据え方仕り度願い奉り候、何卒願いの通り仰せ付けられ下し置かれ候はば有り難く存じ奉り候、仍て願書差上げ申し候、以上
戌八月末廣貞四郎   
右の通り願い出候に付き、宜しく仰せ付けられ下さるべく候、以上
国作治部平    
吉田九兵衛様
(国作手永大庄屋天保七年日記五月二一日条)

 
 これ以前、唐戸(水門)は一カ所であったが、それだけでは洪水の際に水がはけず、大新地・沖新地の地内で満水となった水により、土手が切れてしまうことが度々であった。そのため、沖新地にもう一カ所、唐戸を設けることについて願い出たのである。
 全国には様々な干拓があると思うが、共通するのは干拓ゆえに海抜が低いという点であり、水はけの問題は干拓地が抱える宿命でもあった。