寅新地は、その名が示すとおり寅年に干拓が行われたもので、具体的には慶応二年(一八六六・丙寅)の干拓であることが史料から確認できる。同年二月一二日、家老・小宮民部らが新開場所の見分を行ったことから始まり、国作昇右衛門(国作手永大庄屋)、国作平蔵(同子供役)、白石治右衛門(大橋村庄屋)が「沖新地先新開御築立ニ付御用掛」となった(国作手永大庄屋慶応二年日記二月一二日・二一日条)。この新地の「沖土手」(潮止め堤防か)は二〇〇間であった。(同五月四日条)。「寅新地」と呼び始めたのは同年五月からで、藩からの指示によるものであった(同前)。
なお、後述するように、寅新地の干拓は金屋村卯新地と同じく、大橋村の住人・森文六の請け負いによって工事が行われたことが推察される。