卯新地

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 写真5「京都郡文久新地築立図」(田川郡・個人蔵)は、後述する仲津郡今井村の文久新地ではなく、図の左側、線引きして距離・反別を書き込んだ、京都郡与原村の地先干拓を行う際に作られた図面と思われる。「文久新地」という名称が使われているが、文久年間(一八六一~六四)の干拓ではなく、「仲津郡今井村の文久新地に相当するような大きな干拓地」という意味で「文久新地」の名前を使っているのではないだろうか。この絵図面が明治以後の作成と推測した論拠の一つでもあるが、金屋の部分を見ると、「卯新地」とは記されているが、辰新地の名前が見えない。これは辰新地が卯より手前、つまり内陸側にあるためなのだが、では「卯新地」はいつ造られたのであろうか。
写真5 京都郡文久新地築立図
写真5 京都郡文久新地築立図(個人所蔵)
明治時代以後の作成と推定される(本文参照)。右上に描かれている島は蓑島。絵図の下端から上へ流れる川は、向かって右から江尻川(金屋川)・今川・長峡川(行事川)。江尻川・今川の間は金屋村の、今川と長峡川との間は大橋村の干拓地。金屋村の地先突端には「卯新地」、大橋村の突端には「寅新地」の文字が見える。江尻川の右岸は今井村文久新地。

 
今度辰新地尻新開御築き立てに付き、右地所森文六と立ち合いの上見分これ有り、御為宜しく申し談ぜらるべく候、以上
五月十日和田藤左衛門   
平嶋甚兵衛殿
元永壮左衛門殿
国作昇右衛門殿
猶以本文の趣森文六へも乞い合いこれ有るべく候、已上
(国作手永大庄屋慶応二年日記五月一一日条)

 
 辰新地の地先(尻)に新地を築くというのであるが、これは金屋村以外に考えられない。卯新地は慶応二年(一八六六)五月頃から準備が始められ、おそらく翌慶応三年(丁卯の年)に完成したので、卯新地と名付けられたのであろう。この新地も今井村文久新地と同じく、仲津郡里三手永(国作・平嶋・元永)の大庄屋が御用掛となって工事が進められたようである。なお、史料に名前のある森文六は、大橋村のいわゆる「徳人」(富裕層)で、同村横町に広大な屋敷と土蔵を構えていた。慶応二年五月二四日付けの同人宛書状(同前史料五月二八日条)で、郡方本〆役・樋尾林助は「辰新地尻の処、絵図面の通り宜しく御頼みなされ候、金子の義は御用意に相成り居り候間、御受け取り人御差し出しなされ候様」と伝言しており(郡代・杉生募から?)、これを文字通り取れば、辰新地尻新開(卯新地)は、森文六が請け負って行われたことが考えられる。また、同じ書状の中で樋尾林助は、寅新地の浪除け杭の打ち方に関連して「貴様御工夫を以て、後年の為よく/\御考合なされ、御打ち方なさるべく候、此段はしろふと(素人)の勘合にいかぬ事故、貴様御工夫第一に存じ奉り候」と述べており、大橋村寅新地も森文六の請け負いで行われたことが推察される。
 それにしても、干拓の「玄人」森文六は、そういった特殊な土木技術の知識と経験をどこで積んだのであろうか。直近に行われた干拓で最も大規模だった今井村文久新地の工事に、森文六は関わっていない。彼が文久二年(一八六二)に「要用」のため大坂へ上っていることが確認できるが(国作手永大庄屋文久二年日記一〇月一一日条など)、そのことと土木技術の習得を関連づけるのは、付会(こじつけ)に過ぎるだろうか。