奥清右衛門伝

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 奥清右衛門のことが周知されたのは、幕府編纂『孝義録』に掲載されたのが初めである。同書は、幕府のいわゆる寛政改革の一環として、民衆教化のために作成されたもので、寛政元年(一七八九)に全国へ向けて善行者の記録提出が命じられ、享和元年(一八〇一)に刊行された(全五〇冊。八千六百余人を登載)。残念ながら清右衛門については評伝が付されておらず、「奇特者 同領(小笠原右近将監領分) 仲津郡真薦村小庄屋並 清右衛門 四九歳、天明八年褒美」(『官刻孝義録』四五)とのみ記されている。
 清右衛門の事績がより具体的に調査されたのは、田川郡糸村の社家・毛利丹波守正春が、文久二年(一八六二)から開始した「孝子伝」編纂の過程においてである。毛利正春は、「御領中古来よりの孝心貞実の者名前・行状の次第相調べ孝子伝相記したく」と発意して藩へ願い出、藩はそのことを「神妙の事」とし、彼が古老に聞き取り調査を行うにあたっての便宜供与を村々に指示したのであった(長井手永大庄屋文久二年日記八月二〇日条)。
 毛利正春は郡方役所から公認調査の証文を受け、実際に領内を廻村して「孝子」の言い伝えなどを採集したのであるが、仲津郡の村々では、彼の調査を拒絶・誹謗する動きが一部にあったようである(国作手永大庄屋文久三年日記三月一五日条)。見知らぬ社家が突然訪れて「根掘り葉掘り」聞き取りをされることに反発があったのであろうか。ともあれ、慶応年間に至り「孝子伝」は完成し、公刊はされなかったものの、「孝義旌表録」の書名が付され、藩へ提出された。この「孝義旌表録」(小笠原文庫に略伝が現存)と、大正期刊行の『京都郡誌』に収められた「孝義旌表録徴」(孝義旌表録の典拠史料を収載。所在不明)および「孝義廿八人伝」(書誌未詳)から、奥清右衛門の人物像を整理すると表14のとおりである。
 
写真6 「孝義旌表録略伝」真菰村清右衛門伝の挿絵
写真6 「孝義旌表録略伝」真菰村清右衛門伝の挿絵(豊津高等学校錦陵同窓会所蔵)

表14 奧清右衛門の人物像
項目内容備考
氏名奥清右衛門。若い頃の名を清兵衛。 
生年寛保2年(1742)。「孝義廿八人伝」では元文5(1740)
居村真菰村 
父親の名前清兵衛「孝義廿八人伝」では勘兵衛
性格幼年の頃より篤厚 
人の喜を以ってわが喜びとし、人の憂いを以ってわが憂いとする 
人生15歳茶・油の行商を始める。少しずつ蓄財。 
22歳家督相続。父親から家屋敷、田2反、銭3貫文、米2石その他雑穀を分与される。 
 間もなく田2反、畠に菜園を買い増す。下男・下女を1人ずつ雇い農業経営。自分は行商続ける。 
 しだいに田畑買い増す。 
 「父の元で生活していた時は年貢を納める心配もなく、気安く生きていたが、自分で家を持てば色々と気遣わしい。同じように村内の貧窮している人はさぞ年貢のことが心配であろう。何とか救わなければ」と思い立つ。(村の状況・原文)「真菰村の地たるや、かたへ(片辺か)は海にして田は八町に過す米少し、古来より農業はかりにあらす、漁をもて世渡りを業とせり、かゝる村ならは困窮なる事隣村よりも強し」
33歳米30石の貯えができる。これを大庄屋に預け、利米を村方難渋者の年貢の足しに貯えてもらう。 
47歳天明8年(1788)、米150石の貯えができ、真菰村の救済に宛ててくれるよう藩に願い出る。 
藩主・小笠原忠總は大いに喜び、150石の使い方について家臣に評議させる。今井村海岸の空き地を干拓して農地を開き、収穫米から年貢を引いた余米を真菰村の年貢の足しにすることに決まる。田畑10町余りが開発される。45年後の天保5年(1834)から年貢を納め始める。反別10町8反7畝19歩、本高80石5斗6升7合、物成20石3斗9升3勺、年貢率20%。
清右衛門へは褒美として永代小庄屋格の格式と永代居宅の年貢を免除する特典が与えられる。帯刀と年始門松の格式を与えられることは固辞。
郡代から褒美として、樽・肴と金子が与えられる。功績を後世に伝えるため干拓地を「清右衛門新地」と呼ぶよう指示。若年の頃の名から、別名「清兵衛新地」ともいう。
76歳文化14年(1817)、沓尾村に溜め池がないことから、隣村の津留村の「井田」という場所に池を作る。このために潰された津留村田地の年貢は清右衛門が所有する真菰村の「上川原」「そふ田」という所の田地からあがった収入を宛てる。 
77歳文政元年(1818)4月、郡代から褒美として樽・肴を下賜される。 
 その後、隣村津留村の窮状を知り、1100貫文(「孝義旌表録徴」では11貫目)を施与。清右衛門が所持していた津留村の借用証書(土地・建物を担保とする)を返却。軒別にも8貫文(「孝義旌表録徴」では80目)を寄付。これにより、津留村では毎年1月6日に「清右衛門祭」が行われるようになる。また、津留村の万平という人物は、二代目清右衛門が亡くなった時に1俵もの斎米を贈った。
 「枇杷の目」という所の田地余米2俵のうち、1俵を津留村八幡宮の「神楽米」として寄進し、残り1俵を「馬場村の道作り賃」とした。 
 真菰村に200石を寄付し、その利米を年貢の足しとする。このため、真菰村は1反に付1石6斗位ずつの年貢高であったのが、1石3斗位の上納で済むようになった。 
 隣村金屋村に新田畑を寄付。 
 真菰村天満宮の拝殿を再建。 
 檀那寺の西福寺はじめその末寺にも田地を寄進。 
 今井村浄喜寺大堂普請中に飯米10石を寄付。 
 近村の社寺に田地寄付。 
 辻垣村・馬場村の神主・片山氏に米18石寄進。 
 貧しい者が居宅の前を通ったら古着を1枚与えた。また難渋の者があると聞きつけると、その者が衣類に困っていないようなら、米・小遣いを贈った。 
 老年に及んで自分の衣類まで無くなったが、小倉久松屋に300貫目を預けていた。これを使って高野山へ行き、27日間の絶食修行をするなどして1年余り滞留。 
87歳高野山から帰国後、文政11年(1828)9月9日死去。法名は仁誉興定行居士。 
【史料】「孝義旌表録略伝 仲津郡」(小笠原文庫87-2号)、「孝義旌表録徴」(『京都郡誌』所収)、「孝義廿八人伝」(同)

 「孝義旌表録」に記されたことを全て史実とするのは問題だが、おおよそ、このような人物であったとすれば、まるで、何かに追われるかのごとく「世のため人のため」に尽くそうとするその姿は、正直に言って、「尋常」の域を超えているように思う。それを、「人の喜びを以てわが喜びとし、人の憂いを以てわが憂いとする」彼の人格によるものだけでなく、何か別の背景があったのではないか、とは考え過ぎであろうか。奥清右衛門の死後、息子の二代目清右衛門は不如意な生活のうえ早世し、その息子二人も夭死したため、稀なる「奇特者」の家は断絶した。