平井新地

403 ~ 406 / 898ページ
 清兵衛新地の北側(海側)に隣接する平井新地は、その位置から考えて、清兵衛新地より新しく干拓されたことは明らかである。この新地について、『福岡県農地改革史』(昭和二八年、福岡県)に所収された田代隆氏(当時九州大学農学部助教授)のレポートの要旨は次のとおりである。
①平井新地は、文久新地とともに小笠原藩主の命を受けて当時の家老・平井某が近隣の役人を采配して干拓したと考えられる。
②平井新地は干拓の条件がよく文久新地よりも早く別の堤防を作って文久年間以前に完成したようである。
③しかし、文久新地と平井新地は別々に作られたのではなく、同時に作られた干拓で、ただ平井家の所有地が集まっているため「平井新地」と名付けられた、という説もある。

 ①②と③との間に、名前の由来と開発時期に関して矛盾があるのだが、とくに開発時期について田代氏の結論は「平井新地は文久新地よりも先にしかも別個に干拓されたもの」というものであった。その論拠は、第一に、二つの新開地を区別できる堤防が残存していること、第二に、文久新地は今川から新しい用水路を引いているのに、平井新地は既存の祓川からの用水を使用していること、第三に平井新地は近隣からの入作であるのに、文久新地は他から入植したものが大部分であること、そして第四に平井新地は大半が永小作であるのに、文久新地にはそれが全然ないこと、以上四点であった。その上で田代氏は「平井新地の方が相当有利な干拓条件を備え文久新地とは切り離して干拓されたものであり、しかも耕作条件にめぐまれ文久新地に比して相当早くより干拓されたもの」と推測している。
 田代氏が、地理的外観、水利、耕作者、耕作権から両者を区別したことは妥当であったと考えるが、平井新地が文久新地より「相当早くより干拓された」としたのは論拠が薄く、一考を要する。というのは、両者がほぼ同時期に開かれたことも考えられるのである。次の史料を見ると尚更、その可能性を考えてみたくなる。
 
其元義、今井浦手開の田畠少々実取にも相成り候に付き、冥加として当冬より米四石上納致したき段、伺いの通り申し付けられ候、此旨相心得らるべくと存じ候、以上
   十二月廿三日     和田藤左衛門
      国作良平殿
(国作手永大庄屋文久三年日記一二月二四日条)

 
 国作良平は、文久三年(一八六三)当時の国作手永大庄屋であり、今井村の住人で本姓は秋満といった。文久三年は文久新地での田畑耕作が限定的に行われたのだが、まだ完全に工事が終わっていない段階である。田代氏は文久新地と平井新地の違いを干拓時期の違いで説明したが、こういった開発主体の違い(藩か個人か)も視野に入れて考えるべきであろう。勿論、これだけでは「今井浦手開の田畠」が平井新地であると判断できないが、可能性として考えられなくもない。『京都郡誌』文久新地の項には、「本郷氏(注:社家か)の記録」からの引用として「此日兼て築立有し平島、良平新地と唱良平宅に而祝宴あり」とあるが、そのままでは意味が通じない。「平島、良平新地」と平島の後に読点を打ったのはおそらく誤りで、「平島良平新地」が正しいと思われる。秋満良平は、文久元年二月まで平嶋手永の大庄屋であり「平嶋良平」を名乗っていた。この平嶋良平新地は、まず間違いなく「今井浦手開の田畠」であろう。
 平井新地の名称については、田代氏のレポートに「当時の家老・平井某が近隣の役人を采配して干拓したと考えられる」とあるが、おそらくその可能性は薄い。というのは、小笠原藩の家中で平井姓は確かにあるが、家老を勤めた人物はいないのである。唯一、明治二年(一八六九)一月に平井小左衛門(後に淳麿)が「執政」(旧家老職から職名変更)になったが、平井新地の位置からして、文久新地より新しいことは考えにくいので、「家老・平井某」=平井小左衛門はない。また、田代氏が異説として紹介している「平井家の所有地がここに集団しているため平井新地と名付けた」というのも、史料を見る限り可能性は薄い。
 このようなことは考えられないだろうか。「平嶋良平新地」=ひらしまりょうへいしんち=平井新地、つまり、平島良平新地と呼ぶ煩わしさから、いつの頃からか「ひらいしんち」略して呼ぶようになった。「平井」の文字は後に充てたもの。だから、「今井浦手開の田畠」=平嶋良平新地=平井新地。これは、あくまで想像であるが、可能性の一つとして提示しておきたい。