干拓の開始

406 ~ 407 / 898ページ
 現在まで確認されているところ、後に「文久新地」と呼ばれることになる干拓の初見は次の史料である。
 
其元義、此度沓尾村地先新地築き立てに付き、御用掛申し付けられ候、此旨相心得らるべく候、以上
八月十九日      和田藤左衛門
 国作良平殿
左の面々へも同様御用掛申し付けられ候間、夫々直に達しいたし候、此段心得えらるため申入れ候、以上
八月十九日
 国作良平殿
元永甚兵衛
平嶋壮左衛門
柏木勘八郎
以上
(国作手永大庄屋文久元年日記八月一九日条)

 
 国作手永大庄屋・国作良平は前述のとおり秋満という姓で、今井村の住人。元永手永大庄屋・元永甚兵衛は本来の姓を守田といい、沓尾村の住人である。平嶋壮左衛門は、稲童村の住人で本姓を城戸といい、文久元年(一八六一)六月までは悦次郎を名乗っていた。柏木勘八郎は、大橋村の住人で、小倉藩屈指の豪商「柏屋」である。史料で今井村の地内で新規に行う干拓を「沓尾村地先新地」と呼んでいるのは、干拓を指示した郡方役所が当初勘違いしていたもので、国作良平からの「此度新地式は今井村に相成り候」(同前八月二二日条)との指摘で改められた。
 いずれせよ、今井村の文久新地干拓は、藩の指示にもとづき(初め地元からの提案があったのかもしれないが)、仲津郡国作・平嶋・元永の各手永大庄屋(この三手永を仲津郡では「里三手永」といった)が地元責任者となって開始された。
 なお、『京都郡誌』(京都郡役所、大正七年)には「沓尾新開も文久元年に開きしものなれども、沓尾の新開は文久新開と称す」とあって、文久新地とは別に「沓尾新開(文久新開)」なる干拓が行われたように記されている。しかし、これは誤りと思われ、『京都郡誌』で言う「沓尾新開(文久新開)」とは、今井村地先に開かれた文久新地のことであり、「沓尾新開(文久新開)」という干拓がそれとは別に行われた事実はない。