文久新地の計画図は、久保米左衛門(御郡方書役)、堤平兵衛(行事村商人「新屋」)、阿部長左衛門(小倉木町住人)、それに柏木勘八郎が加わって作成し、八月中には里三手永大庄屋経由で藩へ提出された。残念ながら図面そのものは残っていないが、図面に添えられた手紙から、当初藩から指示された計画よりも範囲を拡張して計画図が作成されたことが分かる。具体的には、藩は今井村沖の「高洲」(砂嘴)を西限として干拓を指示したが、前記四名が見分した結果、「高洲より西に弐百間余り築き出し候ても残り間数長く、迚も三川筋、大橋・金屋・今井古田ニ相障り候儀は少しも御座無く候」(国作手永大庄屋文久元年日記八月二九日条)、つまり、当初の指示より二〇〇間(約三六〇メートル)西へ干拓地が突き出しても、行事川(現長峡川)、今川、金屋川(現江尻川)に面した大橋・金屋・今井の古田(昔から検地帳に登録されている田地)に悪影響は全くない、と判断されたのである。