役割分担

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 里三手永大庄屋が御用掛に任命されたのを皮切りに、その他の御用掛も順次任じられたようであるが、文久元年一二月に至り、それぞれの役割分担が郡方役所から次のとおり指示された(同前史料一二月二日条)。
 
御用掛/国作良平・元永甚兵衛・平嶋壮左衛門、本銀引受/万屋助九郎・柏木勘八郎・堤平兵衛、御用掛/堤半兵衛(惣世話方・本銀出入吟味を兼務)、惣世話方/飯埜伴右衛門(本銀出入吟味を兼務)、惣吟味方/阿部長左衛門(場所渡方・出来立吟味・諸品買入吟味を兼務)、米銀受払方/守田欣左衛門・道場寺村太左衛門(諸場所人夫着到も引き受け)、世話方/蓑嶋大嶋 磯辺健之助・小嶋 重太郎(高洲より石垣出鼻迄)、世話方/今井村甚平・真菰村庄平(金屋江尻より石垣出鼻迄)

 
 大庄屋三人に対し、ただ「御用掛」とのみで役割の具体的内容を限定しなかったのは、「御用掛りと計り相記し候方、手広くこれ有るべく」(同前史料)つまり仕事を特定しない方が動きやすいとの配慮からであった。
 「本銀引受」は、文字どおり解釈すれば干拓費用の出資者ということになろうか。柏木、堤に加え、上毛郡宇島の豪商・万屋助九郎も加わっている。堤半兵衛(号・青羊)と堤平兵衛(諱・定植。明治三年に通称を半蔵と改める。号・聴松)は親子で、御用掛・惣世話方・本銀出入吟味の三役兼務の半兵衛が父である。
 堤半兵衛とともに、「本銀出入吟味」(出納検査係、といったところか)を任された飯埜伴右衛門は大橋村の商人で、同村観音堂(現養徳院)前に広大な自宅があった。
 前述のように阿部長左衛門は小倉木町住人で、彼がいかなる人物か未詳であるが、おそらく土木工事に通じた者であろう。惣吟味方・場所渡方・出来立吟味・諸品買入吟味といった役割を考えると、彼は干拓工事の「現場監督」ということになろうか。
 「米銀受払方」(現場における出納係か)と村々からの夫役出勤チェックを担当した二名の内、守田欣左衛門(諱は房貫。通称は欣左衛門のほか卯助、甚左衛門、精一)は沓尾村の住人で大庄屋元永甚兵衛の実弟であった。この時は沓尾村庄屋を勤めていたと思われる。後に平嶋手永、元永手永の大庄屋に昇進し、明治以降は大区区長、県会議員となった。簑洲の号を持つ文人でもあった。同じく米銀受払方の道場寺村太左衛門は姓を秋満といったが、国作(秋満)良平との関係は未詳である。
 世話方の蓑嶋大嶋・磯辺健之助と小嶋・(磯辺)重太郎は、それぞれ大嶋・小嶋の庄屋である。同じく世話方の今井村甚平(姓は吉永)真菰村庄平(姓は田原)もそれぞれ庄屋であった。前者の世話方は海に面した側の堤防を担当し、後者は金屋川沿いの堤防工事を担当したが、両者に対し「金屋江尻の方も相互に気を付け世話致すべき事」、「高洲の方も相互に気を付け世話致すべき事」という指示が付け加えられていた(同前史料)。