文久新地の潮止め

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 文久新地の堤防建設は、文久二年(一八六二)二月一三日から一五日の三日間、村々に夫役を課して実施していることが確認できる(国作手永大庄屋文久年二年日記)。ただ、同じ年の仲津郡長井手永大庄屋日記を見ても、その日に出夫していないことが分かるので、やはり堤防工事は、国作・平嶋・元永の里三手永が行ったのであろう。その後は賃銭雇用の労働力によって工事を進めたのではないかと想像するが、同年五月九日、ついに干拓地を海から遮断する、潮止めの日を迎えることになった。潮止め工事は次の四カ所で行われている。
 
①沓尾前潮止め堤防/平嶋手永が担当/長さ三七・五間、高さ一・五間、根置(底辺)五間、留め(上辺)一・五間/必要な土砂一八二・八一立坪/必要な人夫数七三一人
②蓑嶋前潮止め堤防/国作手永が担当/長さ一二・五間、高さ一・五間、根置四間、留め一間/必要な土砂四六・八七立坪(史料では四七・六立坪と計算違い)/必要な人夫数四七六人
③蓑嶋淵の埋め立て/国作手永が担当/長さ四間、横二間、深さ一・二五間/必要な土砂一〇立坪/必要な人夫数一五〇人
④竪登り潮止め堤防/元永手永が担当/長さ二七・五間、高さ一・五間、根置四間、留め一間/必要な土砂一〇三・一二立坪(史料では一一〇立坪。切り上げか)/必要な人夫数八八〇人
(国作手永大庄屋文久二年日記五月九日条)

 
 郡奉行・和田藤左衛門が見分する中で行われたこの工事は一日で終わった。国作手永では、現場での働きが目覚しかった大橋村の住人一四名へ酒料二八匁が与えられた。例えば、国吉、仲平の二名は「弐丁もつこ(=畚、藁で作った土砂等の運搬具)」、つまり両肩で畚を抱えるという働きぶりにより、褒美を与えられたのであった(同前五月一二日条)。