同月二〇日、文久新地の北唐戸(水門)が「汐責り込」のため、造り直さなければならない事態となった。これを受けて郡奉行・和田藤左衛門は、工事従事者および御用掛の者に対し、「又候(またぞろ)不都合共これ有り候ては重畳相済み申さず、如何程の御怒り相成るべくも計り難く恐れ入り候」と、再度失敗した場合、郡代の怒りを買い、処分されるであろうから「吃度(きつと)覚悟」を求めている(同前五月二〇日条)。「在方格別繁多の時節、差図事も多かるべく、辛労千万相察し候へ共、この儀は別事と相あきらめ、稠しく出精これ有る様」(同前)との言葉には、切羽詰まった状況が如実に表されている。文久新地を北と南に分け、北は国作良平・元永甚兵衛・堤半兵衛、南は平嶋壮左衛門・柏木勘八郎・飯埜伴右衛門の担当とし、それぞれ国作・平嶋の両大庄屋を「肝煎」(世話人)としたのも、再度同じ失敗を繰り返さないためであった(同前)。唐戸の設置工事は八月一五日に全て完了した模様である(同前八月一二日条)。文久二年の段階で干拓は完成していなかったが、試しに稲の作付けが行われており、郡代へ献上された文久新地の新米から二升五合を御用掛の者へ配分している(同前一〇月一八日条)。
史料を見る限り、文久新地の干拓は、今川坊主井手からの水利工事に手間取ったものの元治元年(一八六四)中にはほぼ完成したようである。干拓地の総面積は六二町七畝であったという(『京都郡誌』引用「本郷氏の記録」)。
同年一一月には「当子年より来る酉年迄十ケ年の間四公六民の取り立てにて、右年限相立ち候はば相応の新地免極め方願い出候趣」(国作手永大庄屋元治元年日記一一月九日条)が郡代から許可された。必ずしも意味が明確ではないが、一〇年間の鍬下年季を設け、段階的に四〇%の年貢に近づけ、その後新たな年貢率を定める、ということであろうか。一方で、『京都郡誌』引用「本郷氏の記録」の「上納御定の事」では、文久二年は年貢一切免除、翌年からは田畑等級(五段階)に応じ、段階的に八年間かけて四公六民の年貢にするとしている。どちらが正しいのか即断はできないが、どちらか選ぶとすれば、一次史料の前者を採るべきであろう。