文久新地の「地割」(土地の割り振り)は、文久三年二月に行われたが(国作手永大庄屋文久三年日記二月一三日・一四日・一六日条)、以後順次、功労者・出資者・入植者への土地配分が行われたものと思われる。入植者について言えば、文久新地には早い時期から広島出身の入植がいたことが確認できる。それは、吉松(四〇歳位)・万作(三五、六歳)の二名で、二人とも干拓工事に従事するため当地に来たようであるが(それぞれ家族六人とともに)、その後永住することになり、土地の配分を受けたのであった(同前七月三日条)。文久新地には、明治一〇年代に二十数戸が新たに入植したが、その中に広島県出身者が含まれていたのも(山内公二『文久干拓百二十年小史』)、もしかしたら偶然ではないかもしれない。
なお、明治三年(一八七〇)七月、豊津藩民政局から、文久新地のうち五町八反を「御変動の砌企救郡より御供致し罷り越し候者共」へ分け与えるようとの指示があり、小今井助九郎、柏木勘八郎、堤半蔵らがそれに応じていることが確認できる(御内家旧蔵文書)。