徳川家康が伝馬(てんま)制度を設けたのは三河(みかわ)時代からと伝えられる。関ヶ原の役によって覇権(はけん)を確立すると、その制度は江戸を中心とした地域から次第に拡充され、全国的なものとなった。
まず、慶長六年(一六〇一)正月に、東海道を最重要路として各宿駅(しゅくえき)に一日に伝馬三六疋(ひき)ずつ提供する義務を課し、そのかわりに地子(じし)を免除した。
伝馬制度とは、伝馬使用者に「伝馬朱印(てんましゅいん)」という印文のある朱印を押した文書を発行して、使用できる馬数を示し、それを宿駅で示せば、その馬の数を無賃で次の宿駅まで使うことができるというものであった。各宿駅には、あらかじめ朱印を押した先触(さきぶれ)が出されており、それと対照して確かめるようになっていた。
翌七年には奥州道の宇都宮に伝馬制が布かれたことが知られ、中山道(なかせんどう)も同年にはすでに伝馬制が行われていた。また北国街道にも慶長八年には伝馬朱印が渡されていたから、伝馬制度はかなり広範囲に及んでいたことが知られる。
宿駅は城下町や村によって成り立ち、宿民は伝馬役の負担者であった。伝馬役は通常表通りに面した屋敷の間口に応じて課せられるのが普通であった。
宿駅の業務を運営する役人を宿役人といい、その中で重要なのは問屋(といや)であった。問屋は人馬の継ぎ立て一切を掌(つかさど)った。人馬の継ぎ立てには、御朱印、御証文、御定賃銭などの別があった。御朱印は将軍の朱印状によるものであり、御証文というのは幕府役人の証明書というべきもので、いずれも無賃で人馬を使役できた。御定賃銭というのは幕府が公定した賃銭で、各宿駅の高札(こうさつ)には、必ずその宿から次の宿までの賃銭が示されていた。
宿駅のもう一つの任務は、旅行者の休息のための茶屋と宿泊のための旅籠屋(はたごや)を設置することであった。旅宿のうち、大名などが休泊する所を本陣といい、各宿で最も上等のものを本陣にあてた。脇本陣は、本陣がふさがっているときに大名・高家の休泊する旅宿で、施設もそれに次ぐものであった。本陣・脇本陣を除いた食事を供給する旅宿を近世では旅籠屋といった。このほかには、旅人が手軽に空腹を満たす煮売屋(にうりや)、わらじや馬具などを売る荒物屋、酒屋、居酒屋、餅屋などがあった。
伝馬制度は幕府の公用のために設置されたことから、江戸を中心とした五街道に重点が置かれ、脇街道は幕府が直接に支配しなかった。五街道とは東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中をさす。道中奉行の支配下にあった五街道以外のものを脇街道といった。五街道に次ぐ重要度の高いものとしては、伊勢路・中国路と江戸より佐渡までの三道があげられる。
中国路は、大坂より豊前の小倉に向かうもので、(摂津)尼崎・西ノ宮・兵庫・(播磨)明石・鹿子川(かのこがわ)・御着(ごちゃく)・姫路・鵤(いかるが)・正条・片嶋・有年・(備前)三ツ石・片上・藤井・岡山・(備中)板倉・川辺・矢掛・七日市・高屋・(備後)神辺(かんなべ)・今津・尾野道(おのみち)・三原・(安芸)本郷・西条・広嶋・廿日市・久波・(周防)関戸・御庄・高森・今市・蛯坂(えびさか)・久保市・花岡・徳山・留田・福川・留海・宮市・小郡・(長門)山中・船木・厚狭市(あさいち)・吉田・小月・長府・下関・(豊前)大里(だいり)の五〇宿があった(児玉幸多『宿駅』)。