三 中津道

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 小倉城下町の常盤橋から中津口を経て、苅田、大橋、椎田を通り、山国川を「小犬丸の渡し」または「広津の渡し」で渡り、中津城下町の島田口の外町にあった島田宿までを中津道という。
 江戸時代の中津道の状況を知るには、菱屋平七の『筑紫紀行』と伊能忠敬の『測量日記』文化六年(一八〇九)、ならびに筑前国糸島郡深江の曹洞禅寺の龍国寺和尚の『中津往来記』江戸中期・延享五年(一七四八)から弘化五年(一八四八)にかけての五回に及ぶ往来記が参考になる。苅田の宿駅の様子は、菱屋平七の『筑紫紀行』に次のように記している。
 
四月廿一日
 浜辺にて人家六〇軒計(ばかり)あり。多くは漁者農夫なり。宿屋少うして問屋場に本陣を兼ねたる林田五郎左衛門という人の家に宿る。

 これによると、宿屋は少なく、林田五郎左衛門が人馬の継ぎ立て一切を掌(つかさど)った問屋と本陣をも兼ねていたことが分かる。また、林田家の前には「従是椎田迄四里半」、「従是小倉迄三里半」の里程標が現在も残されている。
 また、伊能の『測量日記』にも「止宿本陣庄屋五郎左衛門」とあり、林田家に宿泊し、人馬を継ぎ立てている。
 つづいて、苅田から、行事・大橋について、菱屋平七の『筑紫紀行』を見てみよう。
 
四月廿一日
 辰ノ刻頃宿を立て、二丁許(ばか)り行けば浜松村。農人漁者の家四十五軒あり。道より東の方一里計り向ひの沖中に、みの島見ゆ。漁浜にて家居四五百もあるよしなり。道より西にあたりて山中に、南原村、尾倉村などいふ見ゆ。廿四五丁行けば、よばる村農家五六十軒あり

 
 浜松村は浜町のことであろう。南に向かって道より東方、一里(三六丁)ほど沖合いに蓑島が見え、西方高城山沿いに南原、尾倉村を見ている。そして与原では、元和八(一六二二)年頃より始まったと考えられる製塩が、明治中期に本格的な産業として成立し、昭和四(一九二九)年頃まで盛んだった(小野剛史「苅田地域の塩業と塩尻法」『地方史ふくおか』一二二号、二〇〇四)。
 与原から半里ほど行くと行事村に着く。行事は「農家漁者の家二百軒計の中に、酒造りて売大なる家あり、石橋をすぎ川を渡りて一丁計りにして大橋町に至る」とある。「酒造りて売大(うりおおい)なる家」とは玉江家、通称飴屋のことである。「石橋」は今の浦川橋のことであろうし、長峡川を渡り一丁(六〇間)ばかり行くと大橋町に至ったのであろう。こうだとすると、浦川橋は飴屋より苅田よりにあるから、「石橋をすぎ行けば酒造りて売大なる家あり、川を渡りて……」と記載すべきであったろう。
 次に、大橋から椎田までを菱屋平七の『筑紫紀行』を見ていこう。
 大橋から東に向いて七八丁行くと今川に至る。今川を渡る状況は「かり橋のあるが、過半くづれ落ちたれば歩(かち)よりわたる」とあり、半分以上が崩れ落ちていて歩いて今川を渡った。さらに進むと羽根木村を通ったが、「はね木村人家三四十軒あり。休むべき茶屋もなし」と、羽根木には休憩の茶屋もなかった。また、先に行くと「辻掛(つじかけ)川にいたる。是も橋落て歩より渡る」と辻掛川は辻垣を流れる川で祓川(はらいかわ)のことである。祓川も橋が落ちていて歩いて渡らざるを得なかったという。
 祓川を過ぎて二、三丁行くと高瀬村、ここについて「道傍にさし出したるは三四軒皆茶屋なり」と記し、ここで休憩している。高瀬を過ぎれば、街道は平山の「小松原」の中を抜けて行き、この辺りは「赤土のネバ」で小石も少なく道は良い。しかし雨降る時はぬかるんで歩きにくかったという。高瀬から半里ほど行くと、「西は仲津郡、東は築城郡」と刻まれた郡境石があったというが、この標柱は今では見られない。音無川(おとなしがわ)を渡り、一丁ばかり行くと、「中茶屋とて三四軒」あったという。中茶屋は築城基地辺りと思われる。これより小石道を一里余り行くと、「二口川(ふたくちがわ)を歩にて渡る。水深うして道筋よりは渡られず。二丁計川下に浅瀬のある所より、かろうじて渡りて」とある。この二口川は城井川(きいがわ)のことで、この城井川の土手下に一里塚がある。この川にも橋はなく、水が深いため、下流の浅瀬まで二丁ばかり下って歩いてやっとのことで渡ったのである。
 城井川を渡ってから一〇丁ほど行くと椎田川(岩丸川)、石橋を渡れば椎田に着く。苅田から椎田間で四里半の道程であった。椎田について、「人家百五十軒計海辺に立つゝけたり。多くは漁者農夫にして、宿屋茶屋もあり。是も小倉の御領にて、駅の宿なり。宿の出口に細き川(真如寺川)あり」と記す。
 岩丸川と真如寺川の間が宿駅で、築城郡筋奉行ほかの役所であった郡屋(現、延塚記念館)や本陣であった御茶屋「四日市屋」、大きな旅籠「城岩」、酒造業「日田屋」など人家一五〇軒ほどあった。
 真如寺川を渡ると湊村に入る。街道は真如寺川に沿って海に向かう。この川筋に帆船を持つ廻船(かいせん)問屋「藤田屋」や「長寿屋」、酒造業「上ン浜屋」、「下ン浜屋」、「魚徳」、「蛭崎屋」、鮮魚店「尾崎屋」などが軒を並べていた。この町並みの浜側には「郡御蔵」があり、築城郡の年貢米が集められていた。その郡御蔵の北、城井川と岩丸川が合流した河口一帯は大型帆船の着岸できる築城郡唯一の本格的港湾であった。酒造業だった「上ン浜屋」の玄関の柱には、今も馬の手綱をつなぐ金具が残り、往時、この金具に馬をつないで、店で升酒を飲んだという。