四 中津道以外の脇街道

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 城下町小倉と中津を結ぶ中津道は、本地域にとって政治・経済・文化的に最も重要な道であった。一方、佐賀や福岡から中津に向かう旅人の多くは、七曲(ななまがり)峠を越えて新町宿を通って椎田宿に出る道を選択している。七曲峠を越えていった旅人の旅日記から、香春から新町までの記述を拾っておく。
 
元禄七年(一六九四) 貝原益軒『豊国紀行』
 五月五日……鏡山村を過行ば、其東に、七曲とて高き岳あり。東西上下の坂、凡(およそ)一里ばかり。其山上は田川京都両郡の境なり。……七曲東の麓に上野村有。……上野新町は七曲嶺を東の方に下りつくして上野村のなを東に有。馬駅也。香春より一里十七町有。

安永七年(一七七八)三浦梅園(ばいえん)『帰山録草稿(きざんろくそうこう)』
 十月九日……香春より新町迄一里半、この間に七まがり峠あり。是田河郡京都郡の界なり。

文化十年(一八一三)野田成亮(せいりょう)『日本九峰修行(きゅうほうしゅこう)日記』
 十月廿一日 当所配礼し昼時より出立、小倉街道新町と云ふに宿す。
 十月廿二日 晴天。新町配礼。昼時出立、七曲りと云ふ峠を越へ香春と云ふ宿へ下る、此処に千手院と云山伏あり、留守、香春明神へ詣納経。

 
 まず貝原益軒の『豊国紀行』によると、遅くても元禄七年(一六九四)には七曲峠は開通しており、上香春と新町が宿駅としての機能を整えていたことが分かる。新町は正保年間(一六四四~四八)の国絵図に初見でき、上久保の内となっている。新町はこの頃に馬継ぎの宿駅として成立したと考えられる。
 この七曲峠越えの街道を「小倉街道」新町の宿といったことについて、この「小倉街道」という名称は、日向の佐土原の修験の山伏であった野田成亮の『日本九峰修行日記』文化一〇年(一八一三)が初見である。
 野田成亮は前日今井に宿泊し、大橋、行事を通って新町に来たのだが、当時行事から香春に行く道は田川道といった。また行橋市天生田(あもうだ)の交差点隅にある道標には「従是西香春道」、「従是北小倉道」、「従是東椎田道」、「従是南石坂越彦山道」とあり、香春から新町を通る道は香春道・椎田道といっていたことは明らかである。中津道においても道標には小倉道・中津道と刻まれていたことから、小倉街道は香春道・椎田道の別称と思われる。
 この道を通った旅人の旅日記を新町から天生田を通って椎田までの記述を拾っておく。
 
元禄七年(一六九四) 貝原益軒『豊国紀行』
 五月五日……天生田川は西郷谷より出づ。西郷谷は仲津郡なり。南の方に二三里ふかし。……右に云し天生田より右へゆけば、国分原とて方一里の広き原有。其東北に国分村有。其村に国分寺有り。真言宗也。美麗にして大なる寺のよし聞ゆ。

安永七年(一七七八)三浦梅園『帰山録草稿』
 十月九日……べふ田の池のほとりこなた中津郡、こよひ日くれてこくさこ村庄右衛門という農家にやどる。此下べふといふ村より筑城郡。此こくさこ村の西、国分寺あり。国分村といふ。……さて新町よりこくさこ迄二里。

 
 まず、貝原益軒の『豊国紀行』にいう天生田川は今川のことで、西郷谷とは犀川谷である。
 天生田の道標によると、椎田から築城-別府-徳永-田中-国作-天生田に至る道は「椎田道」と呼んでいた。そして、天生田から大谷-西谷-新町-七曲峠を越え上香春に至る道を香春道と呼んでいたのである。
 また、天生田より北に向かう今川沿いの流末-大橋に至る道を大橋道といわずに「小倉道」といった。逆に天生田から南に花熊-山鹿宿-崎山-石坂峠-油須原宿に至り、さらに油須原宿から柿原-田原-猪膝町宿-大隈-千手を経由して秋月へ至るのが秋月道である。また、油須原宿または柿原から彦山に向かう彦山道があった。
 このように天生田は、北部九州の主要な脇街道であった秋月道・小倉道と香春道・椎田道とが十字に交差し、陸上交通の重要な地点であったことが分かる。
 また、安永七年(一七七八)三浦梅園『帰山録草稿』に、「べふ田の池」とは今の天生田大池のことであろう。池の堤に「従是東仲津郡・従是西京都郡」の郡境石が立っていて、この池から西へは大谷の山の中を通って西に通ずる古道があったという。また、国作の伽藍橋のほとりに立つ「東仲津道・西香春道・上六丁国分寺」の道標もまたこの古道の存在を知るのである。
 「此下べふといふ村」とあるのは別府村のことで、「こくさこ村」は国作村のことである。
 以上のように、香春道・椎田道は福岡や佐賀方面から中津・宇佐方面に行く脇街道として多くの旅人が通過していたことが分かる。さらに香春道は飯塚宿で長崎道に合流し、長崎並びに福岡や唐津に向かう脇街道であった。
 また、大橋から天生田までの小倉道、天生田から山鹿-油須原へは秋月道・彦山道などの脇街道があった。
 中津道の高瀬から分岐し-道場寺-徳永-綾野-上原-節丸-犬丸-下伊良原-上伊良原-帆柱-彦山への道も重要であったと見える。この道はまた高瀬から馬場-元永から沓尾に通じていたのである。
 龍国寺和尚の中津往来とその道中費用については、近藤典二の『筑前の街道』に詳しい。筑前国糸島郡の西半分は、江戸の中期以来、豊前中津藩の領地に加増された。糸島郡深江に代官所が置かれ、その深江の郊外にある曹洞禅寺の龍国寺は、住職が代わるたびに中津城に出向いて藩主に就任の挨拶をするしきたりになっていた。その中津藩主への就任挨拶の道中の旅費などの諸経費を記した帳簿が五冊あり、これを史料に北部九州の交通を費用の面から考察できる。
 その五回の往復路は表1の通りである。
 
表1 龍国寺和尚の中津往来経路
年代和尚往路帰路
延享五13世 要黙(A)笹栗-飯塚-香春経由(A)香春-飯塚-笹栗経由
(一七四八)
安永七16世 普晙(B)青柳-赤間-小倉経由(C)彦山-小石原-甘木経由
(一七七八)
寛政七17世 瑞龍(A)に同じ(B)小倉-赤間-青柳経由
(一七九五)
天保六20世 智眼(B)に同じ(B)に同じ
(一八三五)
弘化五21世 大栄(B)に同じ(D)椎田-油須原-秋月経由
(一八四八)
出典:近藤典二『筑前の街道』西日本新聞社1985 表1より転載

 この歴代龍国寺住職の糸島から中津往復路には、二つの経路があったことが分かる。糸島から福岡城下-篠栗-飯塚-香春-(七曲峠)-新町-椎田-中津城下に至る七曲ルートと、糸島から福岡城下-青柳-赤間-木屋瀬-黒崎-小倉城下-苅田-大橋-椎田-中津城下に至る小倉ルートであった。ただし、一六世普唆和尚と二一世大栄和尚は帰路にそれぞれ彦山と太宰府に参詣したため違った路を通ったのである。
 この二つの経路について、その道中各宿駅間の人馬賃銭を見てみたい。延享と寛政と弘化の三例には人馬賃銭が記されていたのである。特に寛政のものは往路に本馬一疋と人足三人を雇い、それぞれ本馬と人足の賃銭を別々に記録していた。そのうえ往路が七曲峠経由、帰路が小倉経由の道であったゆえ、同時期の比較ができる。これを表2に示す。
 
表2 人馬賃銭(寛政7年)
帰路
本馬人足
1疋1人
中津
8442
八屋
8848
椎田
174108往路
苅田本馬人足
144881疋1人
小倉深江
182806533
黒崎前原
123635729
木屋瀬今宿
164844421
赤間姪浜
68345126
畝町福岡
6432189
青柳博多
1246210050
箱崎笹栗
241216482
博多飯塚
189359183
福岡香春
512614472
姪浜新町
4422174108
今宿椎田
57295430
前原松江
442212472
波呂中津
出典:近藤典二『筑前の街道』
西日本新聞社1985 表2より転載

 この表に見る福岡藩領内の人馬賃銭は、明和元年(一七六四)に幕府に許可を取った改訂金額と完全に一致していた。この賃銭が御定賃銭と一致していたことは、歴代龍国寺住職の中津行きが藩主によって認められた公用の旅行であったことになる。当時、一般の旅行者は相対賃銭といって、この御定賃銭の約倍額を払って人足や馬を雇っていたのである。
 龍国寺住職が代るたびに行われた、中津藩主への就任挨拶のための道中の各回の総経費は表3の通りである。六〇文銭の一〇〇匁(もんめ)が金一両なので五両か六両程度であるが、時代が下がるほど出費がかさんでいる。
 
表3 総経費
年号一行日程人馬経費
延享要黙・浄瑞・孫七 兵助不明不明五四四匁・一分五厘
安永普晙・雪吾・松藤要吉 両助往、四泊五日本馬一疋四〇八・四〇
復、六泊七日人足一人
寛政瑞龍・了貫・西原担六 磯次往、三泊四日本馬一疋五五八・八七
復、四泊五日人足四人
天保智眼・ほか不明往、四泊五日不明不明
復、九泊十日
弘化大栄・玄超・松藤茂助 忠平往、四泊五日本馬一疋六二七・五六
復、四泊五日人足二人
出典:近藤典二『筑前の街道』西日本新聞社1985 表3より転載

 また、宿銭については表4に示した。宿銭においても値上がりしており、物価の上昇が続いていたと見える。
 
表4 宿銭一覧(4人分)
1748177817951848
延享5安永7寛政7弘化5
△博多10匁赤間8匁飯塚720文博多800文
笹栗6匁小倉8匁椎田800文畝町1100文
香春420文椎田440文苅田640文小倉1100文
松江450文甘木400文木屋瀬640文松江1100文
香春6匁5分  青柳600文△中津1950文
博多6匁    羅漢寺1100文
      宇佐900文
      △中津2歩
      油須原1000文
      大隈1000文
      太宰府1100文
      △博多2歩2朱
△を除き平均 450文平均 680文△を除き
平均 396文平均 1022文
但し1匁=60文 
出典:近藤典二『筑前の街道』西日本新聞社1985 表4より転載