わが国における大化の改新(七世紀半)は、中国の隋・唐の律令制度にならって行政組織を整備し、天皇中心の中央集権的官僚制の国家を作りあげた。
大化の改新に関連して諸国の地図が朝廷に献進されたことは、大化二年(六四六)八月の詔(みことのり)に次のようにあることから知られる。「宜(よろ)しく国々の堺(さかい)を観て、或いは図(ず)し、持ち来たりて示し奉れ。国県(くにこおり)の名は、来む時に将(まさ)に定めむ」とあり、官撰地図はここから始まった(川村博忠『国絵図』吉川弘文館、一九九〇)。
大宝律令の制定(七〇一)により国家体制がようやく固まると、八世紀の前半には官撰の史書や地誌の編纂、国郡図の作成などの国家的事業が相次いで興(おこ)された。聖武天皇の天平一〇年(七三八)には「天下の諸国をして、国郡の図を造りて、進(たてまつ)らしむ」という詔が下され、諸国へ各々国郡図の調進(ちょうしん)が命ぜられている。
この天平の国郡図が徴収されてから五八年後、桓武天皇の延暦一五年(七九六)には国郡図の改訂が行われ、『日本後紀』によれば諸国の「地図、事迹疎略(じせきそりゃく)にして、加わるに年序をもって已(すで)に久し。文字闕逸(けついつ)せり。宜しく更にこれを作らしむべし」とあり、先の地図は簡略であるうえに年数をへて、文字が消えているため、改めて作りなおすというものであった。そして「郡国郷邑(ごうゆう)、駅路の遠近、名山・大川、形体・広狭、具(つぶ)さに録し、漏(も)らすことなかれ」と指示した。この国郡図は一国を単位にして、山野および河海などの地形を描写し、国界、郡界、国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)の位置、郷里の分布などを図示し、里程(りてい)を注記した詳しいものと推察される。
古代国家が崩壊した後の中世荘園制封建時代には、貴族や社寺、有力武士などの権門勢家(けんもんせいか)による領地支配が進み、行政単位は有名無実化し、国家意識も希薄になり、もはや国郡図の作成など望むべきもなかった。
戦国期の長い混乱の後、豊臣秀吉によって天下統一を実現した豊臣政権は、すかさず天正一〇年(一五八二)より全国的規模での検地(けんち)を開始して、石高制(こくだかせい)によって諸国の生産力を画一的に掌握しようとした。
この検地がおおかた終了した天正一九年(一五九一)に、秀吉は全国の大名に検地の結果を記載した御前帳(郷帳)(ごぜんちょう(ごうちょう))と郡絵図の提出を命じた。御前帳に添えるべき郡絵図の作成の指示について、奈良の興福寺の学僧であった多聞院英俊の『多聞院日記』天正一九年(一五九一)に、「日本国の郡田を指図絵に書き、海・山・川、里、寺社、田数以下、ことごとく注し、上(のぼらす)べき」と書き残されている。この天正の郡絵図は事実上、国絵図と同じ性格を帯びたものであった。
織豊政権の国家統一の理想を継承した徳川政権は、およそ二百六十余年の間に各種の国家的な編纂事業を興した。なかでも慶長九年(一六〇四)を初回とした数次にわたる国絵図・郷帳の徴収とそれに基づく日本総図の編集は、幕府の組織的な政治地理事業として注目される。
正保国絵図で縮尺をはじめ絵図様式の統一が促進され、元禄国絵図にいたって国絵図として完璧な内容を具備した。幕府の国絵図事業は、行政や軍事など実務的な目的より、むしろ本質的には一貫して国土の基本図と土地台帳を官庫に完備・保管しようとする、国郡制統治の原則に立つ行政原理的な性格を強くもつものであった。
江戸時代二百六十余年の間に幕府が全国の大名に命じて実施したこのような組織的な国絵図事業は、慶長・正保・元禄・天保年間の全部で四回であった。