正保の国絵図事業の目的は、家康・秀忠・家光と三代の将軍に仕えた大老土井利勝が死亡した寛永二一年(一六四四)七月、その直前の「家光への書状」に見て取れる。「……将軍と幕府の威信を諸大名に示すことが肝要であり、大名の領国や居城はすべて将軍からの預かりものであることを知らしめるため、それぞれ領国の図面、城絵図、領国の石高・人口の詳細を書き出させることこそ緊急の要事である」(川村博忠『国絵図』)と、政治上の献策(けんさく)を書き残している。
正保の国絵図事業において、幕府は諸国から国絵図と郷帳を徴収して、それを官庫に収納することが目的であることを示した。一方、国絵図の詳細な作成基準を指示し、国絵図様式の全国的な統一を図った。なかでも国絵図の縮尺が六寸一里(二万一六〇〇分の一)に統一されたことは、日本の地図作成史上、画期的なことであった。
幕府が割り当てた国絵図担当者(絵図元(えずもと))は必ずしも一国一名とは限らず、一国を数名で受け持つ相持(あいもち)もあった。豊前国絵図は小笠原右近大夫忠真(小倉藩主)と小笠原信濃守長次(中津藩主)の相持となっていた。
幕府は各国の絵図元へ国絵図の調進を命じたとき、絵図作成基準条目二通を示している。それは「国絵図可仕立覚(くにえずをしたてるべきおぼえ)」(二三カ条)と「絵図書付候海辺之覚(えずにかきつけそうろううみべのおぼえ)」(一七カ条)であった。この絵図基準の全条目の内容を佐賀藩の「多久家有之候御書類之写(たくけにこれありそうろうごしょるいのうつし)」(佐賀県立図書館蔵)を示せば次の通りである。
「国絵図可仕立覚」(二三カ条) | |
覚 | |
一、 | 城の絵図のこと |
一、 | 本・二・三丸、間数のこと |
一、 | 堀の深さ、広さのこと |
一、 | 天守のこと |
一、 | 総曲輪、堀のひろさ、ふかさのこと |
一、 | 城より地形高きところこれあらば、高きところと城との間、間数書きつけ申すべきこと |
一、 | 侍町、小路割りならびに間数のこと |
一、 | 町屋、右同断のこと |
一、 | 山城、平城書き様のこと |
一、 | 郷村知行高、別紙に帳つくり、二通上け候こと |
一、 | 絵図、帳ともに郡分(ぐんわけ)のこと |
一、 | 絵図、帳ともに郡切りに、郷村の高上け申すべきこと |
一、 | 帳の末に、一国の高上け申すべきこと |
一、 | 絵図、帳ともに、郡の名ならびに郷の名、すべて難字には朱にて仮名をつけ申すべきこと |
一、 | 絵図、帳ともに、村につき候へは山ならびに芝山これ有り候ところは、書き付けのこと |
一、 | 郷村落とさずように念をいれ、絵図ならびに帳に書つけ候こと |
一、 | 水損(すいそん)、干損(かんそん)の郷村、帳に書きつけ候こと |
一、 | 国の絵図、二枚いたし候こと |
一、 | 本道はふとく、わき道はほそく、朱にていたすべきこと |
一、 | 本道、冬牛馬往還ならずところ、絵図へ書きつけ候こと |
一、 | 川の名のこと |
一、 | 名のある山坂、絵図に書きつけ候こと |
一、 | 壱里山と郷との間、道のり絵図に書きつけ候こと |
一、 | 船渡り、かち渡り、わたりのひろさ絵図に書きつけ候こと |
一、 | 山中難所道のり、絵図に書きつけ候こと |
一、 | 国境道のり、壱里山、他国の壱里山へ何ほどと書きつけ候こと |
一、 | これいぜん上がり候国々の絵図、相違のところ候間、念を入れ、初め上がり候絵図に図中引き合わせ、悪敷(あしき)ところ直し、今度の絵図いたすべきこと |
一、 | 道のり、六寸一里にいたし、絵図に一里山を書きつけ、一里山これなきところは三拾六町に間を相定め、絵図に一里山書きつけ候こと |
一、 | 絵図に山木の書きよう、色のこと |
一、 | 海、川、水色書きようのこと |
一、 | 郷村そのほか絵どりに胡粉(ごふん)入れ申すまじきこと 已上 |
正保元年申十二月廿二日 |
このように「国絵図可仕立覚」の内容は総則的な絵図作成基準を示したものである。第一条は城絵図の作成要領で、第二条以下は国絵図と郷帳の作成要領であり、子細(しさい)な指示があった。
その国絵図作成基準の要点は、提出は二通であること、図中に各村高を記入し、郡単位にまとめること、道筋縮尺は六寸一里として、一里(三六町)ごとに一里山を図示すること、渡河方法、河幅、水深、山中難所、冬の牛馬通行が不可能な箇所、一里山と郷の間の道のり、国境道のりなど注記をつけること、と細かに指示した。
「絵図書付候海辺之覚」(一七カ条)は、港と海岸の小書(こがき)(注記)の要領を指図した細則的基準であった。
このように詳細な絵図基準を示したことから、絵図元各藩はいずれも、まずは国元(くにもと)で下絵図(伺絵図)を作成し、大目付井上政重の許(もと)へ持参して担当者の内見を仰いだうえで、最終的に国絵図を清書したのである。これによって正保国絵図は様式の全国的な統一化が進展した。
一般に諸国の国絵図は江戸において清書され、幕府は各絵図元へ清絵図仕立てに通じた狩野派絵師を推薦したようである。
正保の国絵図事業では国絵図二舗(ほ)のほかに郷帳二冊、道帳二冊および城絵図各一鋪があわせて提出された。それぞれ一通ずつが幕府文庫に収納され、城絵図を除いた残る他の一通が実務用として幕府勘定所に保管された。
郷帳は、国絵図と対をなす性格のもので、一国単位で冊子に仕立てられ、各村の石高(こくだか)を逐一記載して郡ごとに集計し、最後に一国全体の石高総計を記載している。
道帳は基本的には郷帳同様、国絵図の図示事項との対比のための添帳であった。正保国絵図では特に交通関係事項の図示、注記が重視された。しかし、図中の記載には限度があるため、道帳をもって完全な交通環境の掌握を幕府が意図したものであろう。道路を大道、中道、山道並小道、灘道(なだみち)に分類し、それぞれの道筋に沿って里程や地形を説明し、さらに舟路、島々付立(つけだて)を加えている。
幕府が収納した正式の正保国絵図は明暦の大火などによって全く現存しないものの、諸国の絵図元が控えとして保管していた国絵図により、正保国絵図の内容を知ることができる。ただ、献上図の控図とは異なる下絵図類を含んでいる可能性がある。