元禄国絵図の概要

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 五代将軍綱吉の元禄年間(一六八八~一七〇四)に、幕府は全国規模での国絵図改訂を行っている。正保国絵図収納から五〇年余を経過して、その内容が古くなったための改訂であった。この国絵図事業は元禄一〇年(一六九七)閏(うるう)二月に開始され、およそ六年を経た同一五年(一七〇二)一二月までに全国の新国絵図を収納し、それに基づき日本総図を集成してこの事業を完了している。
 元禄一〇年(一六九七)四月、評定所(ひょうじょうしょ)において正式に国ごとに絵図元が任命された。豊前国の絵図元は小笠原右近将監忠雄(小倉藩主)と小笠原信濃守長円(中津藩主)の二名による相持であった。そして小倉藩主忠雄は献上図を清書する清絵図の受持を命じられた。
 元禄改訂絵図の基準に関して、幕府は今回の国絵図改訂にあたって諸国の絵図元へ三通の令条を示達している。改訂の方針を示した「覚(おぼえ)」(七カ条)、具体的な絵図作成要領を示した「国絵図仕立様之覚(くにえずにしたてざまのおぼえ)」(一〇カ条)と「国境絵図仕様之覚(くにざかいえずしようのおぼえ)」(二カ条)の三通であった。
 幕府が示した「覚」七カ条は国絵図改訂の基本方針と留意事項を示したもので、改訂要綱(かいていようこう)というべき内容であった。この条令での指示内容を川村博忠の『国絵図』から要約して次に示す。
 
、絵図の仕立様は縮尺をけじめ古絵図(正保絵図)同様とする
、古絵図を貸し出すので、川筋や道筋の変動、新村の立地など正保以降の変化を訂正すること
、絵図元は国内すべての他領主に正保以降の変化を尋(たず)ねて、変化があればその部分を修正した絵図の提出を求めて国絵図を改訂すること
、国境、郡境に正保以降境論が起こって、境目筋に異動が生じていればそれを訂正すること
、国境・郡境にて現在争論中であれば、それを解決した上で国絵図を作成すること
、国境、郡境以外の境目争いは解決しなくても国絵図を作成してもよい
、貸し出す古絵図にて隣国の絵図元と国境筋を確認しあい、問題があれば幕府に問い合わせること

 
 次に「国絵図仕立様之覚」(一〇カ条)は、絵図作成の具体的要領を指示したものであるが、古絵図(正保国絵図)の基準を踏襲する方針が示され、古絵図の不揃いを是正し、絵図様式の統一を重視するという内容であった。
 また、「国境絵図仕様之覚」(二カ条)は国境記載の要領を示した条令で、国境付近に存在する事物の所属を明確にし、国境筋についての厳正な記述を求めたものであった。
 諸国の絵図元は新国絵図を最終的に仕上げる前に、江戸本郷湯島の絵図小屋において絵図役人による下絵改(あらため)(下絵図吟味)を受けることが義務付けられていた。下絵図改に際しては、新国絵図の下絵図と郷帳下書のほか古国絵図・郷帳の写、改訂箇所を説明した変地帳、隣国と取り交わした国境縁絵図を提出し、役人による吟味を受けた。
 幕府への献上図は下絵図改終了後に清書される手順であった。幕府絵図役人の勧めで、清書の多くは幕府御用絵師であった狩野良信に依頼された。
 こうして献上された元禄国絵図の特徴は、絵図様式が全国的に完璧なまでに統一され、内容的にも整理されて国郡図としての性格がいっそう強化されたといえる。