元禄国絵図に描かれた行橋

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 正保の国絵図の収納から約五〇年を経た元禄一〇年(一六九七)二月に幕府は、古くなった国絵図を改訂するための事業を開始した。
 元禄一三年一一月二六日、郡代役宿久喜右衛門正式と田川郡筋奉行鮎川角兵衛広盛、それに上毛郡筋奉行有山由左衛門寛利の三人は、幕府勘定所に「豊前国絵図」を上納するために小倉を船で発ち、江戸に向かった。
 この時、幕府に収納した豊前国絵図(四メートル四方の大きさ)の控えが、福岡県立豊津高等学校の小笠原文庫に所蔵されている。この元禄一四年(一七〇一)豊前国絵図(『福岡県史資料』第五輯附図に所収)を見てみよう(写真2)。
 
写真2 元禄の豊前国絵図
写真2 元禄の豊前国絵図
元禄14年(1701)豊前国絵図『福岡県史資料』第五輯所収

 まず、正保国絵図と比較して大きく変わったのは、豊前国八郡(企救・田川・京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)全域の村ごとに村形(楕円形)の色を郡単位で変えて各村の石高を記載していた点である。また、清書が幕府御用絵師であった狩野良信の手になるだけに、元禄国絵図は海岸線、河川、山、国境、郡境、主要な社寺、名勝、主要な道路の記載が画一的であったが、美しく丁寧に書かれていた点を指摘し得る。
 同図左下に記載の「豊前国高都合并郡色分目録(ぶぜんこくだかつごうならびにぐんいろわけもくろく)」によると次のように各郡の石高および村数を記している。
 
  豊前国高都合并郡色分目録
   企救郡  高 三万千九百八拾壱石壱斗九升六合
        村数 百九ケ村
   田川郡  高 三万九千五百七拾三石六斗九升七合
        村数 八拾八ケ村
   京都郡  高 二万二千二百二拾二石七斗三升七合
        村数 六拾六ケ村
   仲津郡  高 二万七千六百四拾二石三斗四升六合
        村数 七拾八ケ村
   築城郡  高 一万五千五百五拾六石七斗九合
        村数 三拾九ケ村
   上毛郡  高 三万百拾三石二斗四升六合
        村数 七拾七ケ村
   下毛郡  高 三万六千六百八拾八石一斗一升二合六勺
        村数 百九ケ村
   宇佐郡  高 七万二拾三石八斗四合六勺
        村数 二百八ケ村
    高都合 弐拾七万三千八百壱石八斗四升八二勺
    村数合 七百七拾四ケ村
       元禄十四辛巳年四月  小笠原右近将監
                  小笠原信濃守

 
 この元禄国絵図と正保国絵図に記載された郡別の石高(表高)とを比較すると、豊前国全体では二三万一六八〇石から二七万三八〇一石と一八・二%増加している。一方、行橋市に関連する京都郡は二万二九二六石六斗九合から二万二二二二石七斗二升七合に七〇三石八斗八升二合、約三%減少し、仲津郡では、二万七二一一石から二万七六四二石三斗四升六合に四三一石三斗四升六合、一・六%増加している。
 各村の石高の記載は、例えば「天生田 五百八拾石」「大谷 四百十石」というように村ごとに石高が楕円形の村形の中に記載されている(写真2)。そして仲津郡の村々は濃い黄色で、京都郡の村々は少し薄い土色で村形に郡別に色分けされて記載されており、各郡の合計の石高を郡名とともに書き込まれている。
 正保から元禄へ、各村について表石高の変化を見たのが表5である。これによると、矢山村が六三石(六三〇%)増加し、次いで竹田村が一七〇石(一七〇%)増加と続く。これらの村ではこの時期に新田開発が行われたためと考えられる。逆に大幅に減少した村としては、袋迫が五〇石(一〇〇%)減少、下津熊が二九二石(六七・七%)減少、上検地が二〇五石(三五・三%)減少したことが分かる。袋迫は徳永に併合されたためであり、また下津熊から中津熊が、上検地から下検地がそれぞれ新村として独立したための減少と見て取れる。また、この時期に、農村として長音寺や真菰、港として沓尾が新村としてできている。
 道路網について正保と比較すると、正保国絵図では主要道路のほかに準主要道、村と村を結ぶ道まで記載されていたが、元禄国絵図では主要道だけの記載になっている。しかも、その主要道においても中津道のほかに彦山道や求菩提道があったが、元禄国絵図には求菩提道の記載がない。
 また、正保国絵図では秋月道としての椎田と山鹿を結ぶ準主要道が、椎田-築城-別府-国作-天生田-花熊-木山-山鹿であったが、元禄絵図では、椎田-築城-別府-八ツ溝-山鹿に路線を短縮している。このように路線の変更に関連して、一里塚の位置も変更されている。
 したがって、正保国絵図における椎田道や香春道、大橋から山鹿に通じていた準主要道などの記載がなくなった。また、舟道の記載も見られず、交通網の全体的な簡素化が図られた。この交通網に付随して書き込まれていた一里塚からの距離や村々までの距離、歩渡りなどの道路交通情報は大幅に削減されている。同様に海岸線周りや海上交通上の情報も簡略化されている。
 一方、国境線や郡境線の線引きは、その付近に存在する事物の所属を明快に表現している。そして郡単位で村形の色を変えるなど国郡図としての性格が強まった。また、一里山の墨星(‥)の表示方法における六寸一里(二万一六〇〇分の一)の縮尺での表示など、正保国絵図の基準を基本的には踏襲している。
 このような点から元禄国絵図は、交通網としての情報よりは国土基本図的な国郡図としての性格が一層強化されたといえる。