元禄国絵図・郷帳の成立より一三〇年余を経過し、その内容が古くなったため、天保年間(一八三〇~四四)に幕府は、改めて国絵図と郷帳の改訂の事業を行った。
天保の事業では、慶長・正保・元禄の場合に比べて、国絵図と郷帳の収納方法が異なっていた。今回は国絵図と郷帳が同時ではなく、初めに郷帳、次いで国絵図と別々に改訂された。しかも従来のように諸国から献上するのではなく、諸国には改訂のための調査を要請しただけで、国絵図・郷帳ともに幕府勘定所が一括して改訂して幕府文庫へ収納した。
天保二年(一八三一)一二月に、まず郷帳の改訂に着手し、同五年(一八三四)一二月に全国の郷帳改訂を終えている。次いで翌六年より国絵図の改訂作業に着手し、同九年(一八三八)一二月までに全国の国絵図の改訂を終え、一連の事業のすべてを終了している。
正保、元禄の場合は、諸大名に諸国の国絵図を実際に作成させて提出させた。ところが天保国絵図の場合は、幕府が元禄国絵図を短冊状に何葉分かに切断し、淡彩で薄紙の写しにして諸藩に渡し、元禄図と変わった部分だけを紙に書いて添付し、訂正して提出させた。このように今回は、諸国の国絵図掛へ変地調査による修正図の提出を求めただけで、国絵図の作成は幕府がこれを基にして自らの手で天保国絵図に仕立て上げた。
この改訂になった天保郷帳は全国で八五冊、天保国絵図八三鋪であった。天保の郷帳はすべてが現存しており、天保国絵図も幕府文庫と勘定所に保管したもの二組あわせて一一九鋪が現存しており、全国欠かさず揃っている。
天保国絵図・郷帳の内容面での特徴は、村々の石高すべて実際の生産力を示す実高(拝領高に込高・新田高・改高を加えた)をもって記載するよう要請され、従来のように公称の表高(拝領高)をもって記載したのとは相違した。幕府収納の国絵図・郷帳に郡村の石高を実高でもって記載することは前例にないことであった。それだけに新訂になった国絵図ならびに郷帳に示された諸国の郡村石高が、はたして幕府の指示通りに真の実高であったかどうかよく吟味しなければならない。
正保から元禄、元禄から天保へ至る郷帳石高の変動を知る資料として、川村博忠の「元禄~天保郷帳の石高増加率」『国絵図』がある。これによると、正保郷帳で二四五五万三七五七石(上総国欠)、元禄郷帳で二五七八万六九二九石、天保郷帳で三〇五五万八九一七石であった。正保に対する元禄高の増加率は五・〇%弱に過ぎないが、元禄に対する天保高の増加率は一八・五%であった。正保から元禄に至る石高増加は、基本的には寛文四年(一六六四)の御朱印改による表高(公称高)の変動と見られる。元禄から天保に至る石高増加が著しいのは、元禄郷帳までは表高の表示に対して、天保郷帳では実高による付け出しが求められたためであろう。
ところで、この元禄から天保に至る石高の変化をもって約一三〇年間の生産力の増加と単純に捉えることができないのである。全国六八カ国のなかで最も高いのは長門の一四二・九%、最も低いのは薩摩・大隅・琉球の〇%であった。天保年間の郷帳改訂で幕府は諸藩に対して実高の報告を強く指示したにもかかわらず、諸藩にはそれぞれ思惑があって必ずしも実高報告がなされたとは思えないのである。
豊前国の石高変化を見ると、正保郷帳では二三万一六八〇石、元禄郷帳で二七万三八〇一石、天保郷帳で三六万八九一三石であった。正保に対する元禄高の増加率は一八・二%であったが、元禄に対する天保高の増加率は三四・七%であり、全国六八カ国のなかで、第一〇番目に高い伸び率であったことが分かる。