天保国絵図に描かれた行橋

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 幕府が収納した天保国絵図は八三鋪、ならびに天保郷帳は八三冊であったが、その天保郷帳および天保国絵図は全国欠かさず国立公文書館内閣文庫に揃っている。
 天保九年(一八三八)五月に作成した豊前国絵図(国立公文書館内閣文庫蔵)を見てみよう。
 まず、元禄の国絵図と比較すると、全体の国絵図仕立て様式、なかでも表現方法が類似していることが分かる。これはこの度の国絵図仕立ての方法に起因しており、つまり、諸国の国絵図掛に元禄図と変わった部分だけを訂正して提出させ、幕府がこれを基にして自らの手で天保国絵図に仕立て上げたからである。
 したがって、天保国絵図は、国全体の形態、国境、郡境、山や河川、海辺の状況の形状と描き方や村々の村形の表現、主要道の表示などにおいて、元禄国絵図の表現と類似していたのである。絵図仕立て上の表現方法での変更点はほとんどなく、郡別に村形(楕円形)の中に塗られた色や海や川の色が変わった程度の変更であった。
 大きく変わったのは、天保国絵図・郷帳の内容面での変更、すなわち、村々の石高はすべて実際の生産力を示す実高をもって記載するよう要請され、従来のように公称の表高をもって記載したのとは大きく相違した点であった。
写真4 天保の豊前国絵図
写真4 天保の豊前国絵図
天保9年5月作成(独立行政法人国立公文書館所蔵)

 この国絵図左下に記載の「豊前国高村数并(ならびに)郡色分目録」によると次のように各郡の石高および村数を記している。
 
  豊前国高村数并郡色分目録
   企救郡 高 四万八千八百三拾弐石五斗三升三合
       村数 百九箇村
   田川郡 高 五万六千八百七拾九石八升六合
       村数 八拾六箇村
   京都郡 高 三万四千弐百七拾壱石四斗四升弐合
       村数 六拾六箇村
   仲津郡 高 四万七百七拾三石四斗五升五合
       村数 七拾八箇村
   築城郡 高 弐万弐千八百四拾四石壱斗七合
       村数 三拾九箇村
   上毛郡 高 四万四百九拾五石八升一合四勺
       村数 七拾九箇村
   下毛郡 高 四万七千七百七拾九石三斗五升三合壱勺
       村数 九拾六箇村
   宇佐郡 高 七万七千三拾八石五斗八升三合
       村数 二百三十七箇村
   高都合 三拾六万八千九百十三石六斗四升五勺
   村数  七百八拾四箇村
 
   天保九戊戌年五月      明楽飛騨守
                 田口五郎右衛門
                 大沢主馬

 
 この国絵図によると、幕府の天保の国絵図担当の勘定奉行・明楽飛騨守茂村、目付・田口五郎右衛門、目付・大沢主馬の名が見え、豊前国絵図は天保九年五月に完成したことが分かる。
 まず、村数について、百三十余年前の元禄国絵図と比較すると、豊前国全体では七七四村から七八四村と、一〇村増えたが、京都郡は六六村、仲津郡は七八村で全く変化がなかった。
 元禄に対する天保の石高では、豊前国全体で二七万三八〇一石から三六万八九一三石へと、九万五一一二石(三四・七%)の増加となっている。京都郡の元禄に対する天保の石高を見ると、二万二二二二石から三万四二七一石へと、一万二〇四九石(五四・二%)も増加している。同様に、仲津郡では二万七六四二石から四万〇七七三石へと、一万三一三〇石(四七・五%)増加したことが分かる。
 このような大幅な郡石高の伸びは、新田開発の石高の加算という指摘があるが、むしろ元禄度までの表高から国絵図・郷帳に郡村の石高を実高でもって記載へ変更されたことによると見なされる。
 一方、新田開発としては、天明八年(一七八八)の真菰(まこも)村奥清兵衛が開発した清兵衛新地(今元村今井・一九町五反四畝歩)ならびに開発時期不詳の辰新地(今元村金屋字辰・一四町八反二畝歩)がある。
 しかし、文久新地(文久年間〔一八六一~六四〕今元村今井字文久・七六町四反九畝歩)や苅田新開(文久新田という、文久元年〔一八六一〕に開発、六三町歩)、与原新開(小波瀬村与原・二〇町歩)、南原新開(苅田村南原・明治三一年埋め立て開始)、毛利新開(小波瀬村与原白石海岸・明治一一年、五七町余)などは、いずれも天保国絵図成立以後のことであった(伊東尾四郎『京都郡誌』)。
 村々の石高については正保・元禄・天保国絵図の三時点変化については、次項の「正保・元禄・天保の国絵図三時点変化」で述べることにする。
 道路網について元禄国絵図と比較すると、主要道としての中津道と彦山道が赤線で記載があるほか、準主要道としての秋月道が元禄図と同様、簡素に線引きしている。この秋月道としての椎田と山鹿を結ぶ路線が、変更されている。元禄図では椎田-築城-別府-八ッ溝-山鹿の最短の路線であったが、天保図では椎田-築城-別府-国作-天生田-花熊-木山-山鹿に変更し、正保図と同じ路線に戻している。このように変更したのに伴ない、一里塚の位置も変更している。
 これ以外の道路網の記載は見られず、歩渡りなどの小書きも元禄国絵図と同様に簡略化されており、国郡図(国土基本図)としての性格を踏襲したと見られる。
 河川の記載表現も、元禄国絵図と変化がなく、川の形まで同じであり、元禄図と変わった部分の変地調査図の上に薄紙を置き、清書したことを裏付けている。
 社寺など名所旧跡の記載も元禄図に準拠しており、松山古城跡、等覚寺、青龍窟、綱敷天神、彦山、求菩提山、蔵持山など、修験道に関連した霊峰が多く描かれており、当時の信仰祭祀と関連した生活が偲ばれる。