旧今川河道

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 江戸時代に入り、大橋村の地内では、今川の大規模な河川工事、河道の付け替え工事が行われたことが伝えられている。
 
(略)今川筋も以前ハ今の大野井の下宮の上の所より川筋西北へ流れ、今の宮の西北を通り、金剛丸口の方へ流れ、今の川合地の前を通り、金剛丸の北を通り、今の川田と申所、夫より観音堂の東を通りて、今の御茶屋の東脇より新地の方へ流れ出たる也、貞享年中田中條右衛門殿筋奉行の時、今の川筋へ付替りたる也(略)

 
 この史料は「豊橋柱(とよのはしばしら)」といい、大橋の歴史・伝説を記したものとして『京都郡誌』(大正七年)にも長文が引用されている史料である。もとはある素封家が所蔵していたといい、編まれたのは江戸時代の後半と推測される。
 「豊橋柱」に記された旧今川河道を復元するのに、最も分かりやすい目印は、「観音堂の東」、「御茶屋の東脇」の記述である。観音堂は、現市役所通り脇の養徳院、御茶屋は行橋市中央公民館辺りに所在した藩営施設である。これを目印に旧今川の流れを復元すると、河道は現在よりもかなり西側を通っていたことになり、現河道のように安川電機行橋工場付近で東へ折れることなく直進し、長峡川・小波瀬川合流地点付近へ向けて流れていたことになる。そして、現在のような河道の付け替え工事が行われたのは、貞享年間(一六八四~八八)、筋奉行・田中條右衛門在勤中のことという。確認したところ、間違いなくこの人物は実在し(小笠原文庫「諸士系図」)、また彼の筋奉行就任が延宝七年(一六七九)というから、「豊橋柱」の記述と矛盾しない。