ただ、「豊橋柱」は江戸時代後期に編まれたものと推測されるので、これを歴史書として取り扱うのは問題である。あくまで参考にとどめておきたいが、慶応四年(明治元年=一八六八)に作成された「大橋村 行事村宮市村見取図」(行橋市歴史資料館蔵)を見ると、ちょうど旧今川河道と推定したラインに不自然な溝がある。これは昔の河道の名残りで、排水の都合か何かで一部埋め立てず残した、とは考えられないだろうか。

写真5 不自然な溝
現在の市役所通り・駅前通りに重なる場所に不自然な溝があった。上の写真で、中央部分を左右に走る溝がそれであり、写真右端で舌状に先細り、行き止まっている。旧今川河道の名残りか。(慶応4年「大橋村 行事村 宮市村見取図」行橋市歴史資料館所蔵)