正保国絵図の今川

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 貞享保年間より四〇年ほど前の正保年間に作られた国絵図を見ると、正保年間以降に今川の大規模な河川工事が行われたことが確かにうかがえる。国絵図といっても大雑把なものなので、大橋辺りの河道の変化は読み取れないが、天生田から大野井まではかなり河道が付け替えられていることが分かる。かつての今川は、天生田・大野井間で現在より西側を蛇行していて、現今川小学校辺りを通って宝山と寺畔のちょうど間を流れていた。さらに、大橋で前記のような河道付け替えを行ったとすれば、大変な河川工事が行われたことになる。
 ただ、「豊橋柱」は江戸時代後期に編まれたものと推測されるので、これを歴史書として取り扱うのは問題である。あくまで参考にとどめておきたいが、慶応四年(明治元年=一八六八)に作成された「大橋村 行事村宮市村見取図」(行橋市歴史資料館蔵)を見ると、ちょうど旧今川河道と推定したラインに不自然な溝がある。これは昔の河道の名残りで、排水の都合か何かで一部埋め立てず残した、とは考えられないだろうか。
 
写真5 不自然な溝
写真5 不自然な溝
現在の市役所通り・駅前通りに重なる場所に不自然な溝があった。上の写真で、中央部分を左右に走る溝がそれであり、写真右端で舌状に先細り、行き止まっている。旧今川河道の名残りか。(慶応4年「大橋村 行事村 宮市村見取図」行橋市歴史資料館所蔵)