やはり「豊橋柱」には、大橋村の成り立ちにまつわる「大橋太郎伝説」が収められている。原文を引用する紙幅はないが、概略は「鎌倉時代、豊後の武将大橋太郎が、下正路の漁師の家に滞在し、ついには定住したことをきっかけにして村が大きくなった(豊後から大橋太郎を慕って人が集まってきたことなどから)。それで、大橋太郎の苗字から、村の名も大橋となった」というものである。あくまでも伝説であり、史実とすることはとてもできないが、伝説はそれとして存在することに意義がある。
ところで、大橋村の素封家が所有していた「豊橋柱」を『京都郡誌』に掲載し、初めて世に出したのは、編纂者・伊東尾四郎である。伊東が、「豊橋柱」を貴重な史料と考えていたことは、『京都郡誌』の中で「豊橋柱」のほとんどの部分を翻刻しているところからもうかがえる。
なお、大橋公園(大橋神社境内)にある大橋太郎碑は、大正一四年(一九二五)に建てられたものである。大正五年、旧行橋町役場を字下正路に建設するため整地をしたところ、古墳の中から剣・鏡が出土し、「この墓は大橋太郎の墓だ」ということになった。協議の結果、この遺物を大橋公園の一隅に埋めて、その上に碑を建立することが決まったのだという(旧『行橋市史』)。想像ではあるが、大正五年に剣・鏡が出土した直後、『京都郡誌』が刊行され、「豊橋柱」が広く紹介されたことも、碑建立の背景にあったのではなかろうか。