(略)大橋村もいよいよ人家出来添えけれども、只百姓ばかりにて、商人と申すは一軒もこれ無し、然るに大橋村の住人井上吉左衛門と申す者、小倉公儀へ願ひ出申しけるは、大橋村は中津・小倉の往来筋にて、椎田・苅田の間も程遠く宜しき場所に候間、此所に毎月の商ひ市を御免下され候はば、大橋に町を仕立て商人を置き申したく候、左候はば、此近在のもの諸用を整へ質物等の持ち運びにも自由宜しく候はんと申し上げければ、御郡代原孫左衛門殿、筋奉行浦野万右衛門殿、此段御聞き通り有りて、是は尤もの願い也、即ち此旨御赦免なさるべく由にて、即ち御郡代・筋奉行出郡なされ、井上吉左衛門宅へ御両宿、両郡の大庄屋召よせられ、御評議の上、延宝二年寅四月大橋へ毎月六斎の薪市並に酒場一軒御免なされ候、此後、随分出精致し町並に仕立て申すべし、薪市の義は井上吉左衛門・石川平兵衛支配、酒場・商物には御札所役勿論たるべしとの事也(略)
大橋は江戸時代に入っても一村落にすぎなかったが、井上吉左衛門なる人物が、毎月定期市の開催を藩に願い出て、それが延宝二年(一六七四)四月に許可され、毎月六斎の薪市が許され、同時に酒場を一軒許可された。それをきっかけにとして町が形成された、というのである。「豊橋柱」の性格上、その内容を全く鵜呑みにするわけにはいかないが、名前の見える人物のうち、通称・万右衛門を代々名乗る浦野家は、確かに小笠原家中にあった(小笠原文庫「諸士系図」。ただし、この浦野家は途中で断絶するため詳細は不明)。郡代・原孫左衛門は、小笠原文庫「諸士系図」巻五に収載の原姓三家のいずれかの系統と思われるが、残念ながら巻五は所在不明である。
町場を作ることを藩に願い出たという井上吉左衛門は、屋号を苅田屋といい、本人のことはよく分からないが、息子の吉左衛門重信(一六五五~一七三三)は元翠と号し、各務支考の「西華集」にも作品が収められた俳人であった。そして元翠の後、有隣(~一七五四、通称・源七、諱・信清)-里隣(~一八一四、通称・清助、諱・信次)-里翠(~一八三〇、通称・清助、諱・春信)-雨隣(~一八六七、通称・清助、諱・政信)と、五代にわたり、地方俳人としての系譜を受け継いだのである。
いずれにしても、後年に編まれた「豊橋柱」の記述は参考程度にしかならないが、大橋の町が江戸時代に入ってからつくられた後発の町であることだけは間違いないようである。
元和八年(一六二二)に細川氏によって作成された「仲津郡人畜改帳」(永青文庫蔵)によると、大橋村は高一五〇六石余、家数一九五、人数三九九で、村人の職業を見ても他の農村とかわるところはない。一言で言うなら「少し大きめの一農村」といったところでしかないのだが、ただ大橋村には周辺の村とは明らかに違う点が二つあった。第一は「御茶屋」があったこと、第二は牛より馬が多かった(牛一八・馬二二)ことである。