御茶屋については次項で詳述するが、寛永七年(一六三〇)の史料に「大橋御茶屋」(永青文庫「日帳」、『福岡県史 近世史料編』所収)と出てくるので、細川時代から既にあったことは疑いない。
牛馬の比率についてであるが、各郡の「人畜改帳」を見れば一目瞭然で、ほとんどの村で牛の方が多くなっている。これは細川藩領内のみの傾向ではなく、ひろく西日本では牛耕が一般的で、逆に東日本では馬が圧倒的に多い。それは、かなり以前からそうであり、また機械化が進む最近までそうであった。確かな理由は不明だが、西日本と東日本の地理的条件や農地開発の歴史的経過の違い、さらには東西文化の根本的な差異に根ざすものかもしれない。
とは言え、細川藩領でも個別の村ごとに見れば、大橋のように馬の方が多い村もいくつかある。ただ、そのような村は、築城郡松江村、田川郡香春町、京都郡苅田村など、いずれも往来沿いの在郷町である。細川時代に人馬継ぎ送りの制度がどの程度整備されていたかよく分かっていないが、馬が多い村は宿駅的な役割を既に果たしていた可能性があるのではなかろうか。
いずれにしても大橋村は、周囲の村と同じ「純農村」と言い切れないものが既に細川時代からあったことだけ確認しておきたい。町が形成されたのはさほど古いことではないにしても、在郷町がつくられ、地域経済の結節点となる要素は既にその頃からあったのである。
また、大橋村の中に町場が形成された確かな時期は不明ながら、「豊橋柱」がいう一七世紀後半代というのも、時代背景を考えればあり得なくもない話である。当該期は全国的に史上空前の大規模土地開発の時期であり、それによって経済が活性化し、また貨幣経済が庶民生活に深く入り込んでくる中で、地域全体が経済の結節点を必要としていたのではないだろうか。その時、中津往来沿いで「豊橋柱」にあるように、「椎田・苅田も程遠く宜しき場所」である大橋村が、隣の行事村とともに地域経済の中心としての地位を獲得していったのではなかろうか。