これから以後は、大橋村の中に在郷町が形成され、行事村とともに領内屈指の経済圏をなした江戸時代後半のことを中心に、主として、大橋村が有していた、一村落としては完結しない公的な側面・役割について触れてみたい。具体的には仲津郡の中心地として、郡行政の諸施設が所在する、行政都市としての側面についてである。
大橋村の行政機能を考える時、避けて通ることができないのが、前項でも触れた「御茶屋」の存在である。前述のように、大橋御茶屋は寛永七年(一六三〇)六月の史料に存在が確認でき、既に細川時代に設置されていたことが分かるが、それ以上のことは未詳である。近世の交通路は御用通行が優先して整備・運営されるが、その一つとして、休泊施設としての御殿・御茶屋が公設される。時を経て、そういった公設の休泊施設は民間の「本陣」に移行していくが、地方の脇街道では民間に機能移行しないまま江戸後期に至る、とされる。ただ、細川藩領を事例とした研究では、御茶屋の設置が必ずしも交通路整備と関連していないことと、細川忠興が仲津郡・京都郡を鷹場としており、同郡内の御茶屋設置は、彼の鷹狩と深い関係にあったことが指摘されている(井出隆正「近世豊前国小倉藩における『御茶屋』について」)。
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