小笠原時代の大橋御茶屋

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 細川時代の大橋御茶屋と小笠原時代のそれが物理的(場所・建物)に連続するものなのか否か、全く不明である。連続すると仮定しても、細川時代に設置された施設が、江戸時代のどの時期まで維持されたものか、知ることはできない。寛政二年(一七九〇)の史料に「御茶屋・御蔵・牢屋建て替えに付き、作事方榎本常右衛門昨日大橋へ出郷これ有り候(略)」(国作手永大庄屋寛政二年日記七月二十九日条)とあるが、これは前後の関係から「建て替え」ではなく修繕が正しい。ただ、次の史料に見るとおり、天保一四年(一八四三)二月、大橋御茶屋は焼失し、豪商・柏木勘八郎の寄進によって弘化二年(一八四五)に再建されている。
 
、大橋御茶屋御上棟、御両役様御出席并に手永々々三役上下着用罷り出、投げ餅、御酒下されこれ有り
(国作手永大庄屋弘化二年日記三月四日条)
 
、大橋御茶屋・御番宅共、天保十四卯二月焼失仕り候
、同六月、当時九助居家御番宅屋敷へ仮建て仕り、金田由右衛門様御引き移り成され居り候処、同九月御死去に相成り、其跡へ九助入り込み候様、西様より御沙汰仰せ付けられ引き移り仕り候
、弘化二巳三月、只今の御茶屋、柏木勘八郎引き請け建て方仕り、御廻郡の後御茶屋だけ同人より締り方仕り候様御沙汰に相成り候趣にて、五六月も気を付け居り候得共、懸々にて行き届き兼ね候処より、九助入り込み居り候儀に付き、御郡屋同様に締り方致しくれ候様申し候間、それより九助折々戸を明け風を通し、掃除等仕り、去る戌年迄相運び候段申し出仕り候(略)
(国作手永大庄屋安政元年日記七月二日条)

 
 天保一四年(一八四三)に焼失した建物が、いつ建設されたものであったのか不明だが、築二〇〇年以上を経た細川期建設のものであったとしても不思議ではない。現在、豊津高等学校錦陵同窓会「小笠原文庫」の中に大橋御茶屋の絵図が残されており、それによって御茶屋の規模や間取り、周囲の堀の様子などを知ることができるが、この絵図の作成年代についてはこれまで不明とされてきた。しかし近年、慶応四年(明治元年・一八六八)三月作成であることが確認されたので(長井手永大庄屋慶応四年日記三月一七日条)、ここに描かれた御茶屋は、弘化二年再建の大橋茶屋ということになる。