大橋御茶屋番

451 ~ 452 / 898ページ
 前項引用の嘉永七年(一八五四)七月の史料によれば、天保一四年二月に御茶屋が焼失した際、御茶屋番宅もともに焼失したが、同年六月に仮の番宅が再建され、金田由右衛門が御茶屋番として赴任してきた。ところが、同年九月に金田が死去したため、郡屋番の九助がその仮番宅へ住むよう郡奉行西正左衛門より指示された。弘化二年(一八四五)、柏木勘八郎によって御茶屋が再建された際、その管理は柏木が行うよう命じられ、五、六カ月はそのようにしていた。しかし、とても行き届かないので「九助が郡屋同様管理してくれないか」と柏木が言うので、それ以後戌年(嘉永三年=一八五〇)まで、彼が郡屋の管理と兼ねて、御茶屋の戸を明けて風を通し、掃除などをしていた、というのである。
 この史料は、安政元年(一八五四)に「御倹約」のため大橋御茶屋番が廃止された際、同役が不在であった弘化二年~嘉永三年の御茶屋管理のあり方について、郡奉行からの照会に対する回答である。各郡が小倉城下に保有していた出張所を「郡屋」といったが、ここでいう郡屋は、郡奉行、代官が任地に出張した際に職務を行う施設で、仲津郡は大橋村に置かれていた(ちなみに、京都郡は行事村、築城郡は椎田村に設置)。仲津郡の場合、施設としては二棟あり、郡奉行の郡屋、代官の郡屋でそれぞれ別棟になっていたようである。大橋村のどこに設置されていたのかよく分かっていないが、おそらく御茶屋に隣接していたであろう。ただ、文政一〇年(一八二七)の段階で両郡屋ともに傷みが激しく、とても使用できない状態となっていたため、国作手永大庄屋から郡奉行に対し「大橋御茶屋御三之間下り御台所迄拝借仰せ付けられ下し置かれ候はば、当時御役人様方御出張りの節御郡屋替りに仕り、其の内下方少々居り合い候はば、是迄の御郡屋建て替え等も仕るべし」(国作手永大庄屋文政一〇年日記五月一四日条)と、大橋御茶屋の一部を郡屋に代用することについて願い出ている。
 弘化二年再建の大橋御茶屋が、焼失前の御茶屋と同じ内部構造であったとすれば、ここでいう「大橋御茶屋御三之間下り御台所迄」とは、御茶屋北半分、「御郡地方普請」(営繕を仲津郡が担当)の部分で、表の座敷部(建物南半分。営繕は作事奉行が担当)に対する奥のいわば「家政所」に相当する部分ということになる。この御茶屋代用の願いは許可され、それまでの郡屋建物は売却されたようである(同前七月三日条)。
 その後、郡屋の御茶屋代用がいつまで継続したのか未詳だが、弘化二年に御茶屋を再建する際、郡屋も建設されているようなので(国作手永大庄屋弘化二年日記一月一六日条)、それ以後は代用が解消されたのであろう。
 なお、御茶屋番は下級藩士が任じられたが、史料からその名が知られる者に、前出の金田由右衛門(天保一四年六月~同年九月)のほか、在川類左衛門(文化一二年六月~?)、木下類左衛門(文政二年一〇月~?)、上田慶助(嘉永三年六月~安政元年年六月)、大前源蔵(文久三年一二月~?)がある。先述のように安政元年六月に「御倹約」のため大橋御茶屋番は廃止されるが(これにより上田慶助は免職)、文久三年に大前源蔵が任じられていることから、その後再設置されたことが分かる。
 上田慶助が免職された安政元年(一八五四)以後、文久元年(一八六一)まで、御茶屋番宅は無人となっており、それでは無用心とのことで、文久元年四月に郡屋番が御茶屋番宅へ引越し、管理することになった(国作手永大庄屋文久元年日記四月六日条)。その直前の三月下旬、大橋村の住人・森全七が苗字・帯刀御免の上「御茶屋御宿亭主」に任じられているが(同前三月二一日条)、具体的な職務など詳細は不明である。