御歎き申し上ぐる演説書覚 |
当村の儀は去る文政九酉年以来、数度の出火御座候処、其度々一町内限り焼失仕り候に付き、甚だ以って不審に存じ奉り、若し神仏の祟りも御座候有るべく哉と存じ奉り、度々諸方へ相頼み占い方仕り見申し候処、御茶屋御堀に不浄の物埋り居り候に付き、水神の祟り御座候段申し来り候間、是迄両三度村方より浚い方仕り御断り相立て心願仕り候所、(中略) |
巳八月四日 大橋町 三郎右衛門 |
大橋村 一郎兵衛 |
(国作手永大庄屋慶応二年日記五月一一日条) |
御茶屋近辺へごもく捨て場致さず候様御沙汰に付き、清左衛門へ書状にて申し遣わす |
(国作手永大庄屋安政元年日記三月二五日条) |
前者の史料によると、大橋村に火事が多い理由を宗教者に占ってもらったところ、御茶屋の堀に不浄の物が埋っており、そのことによる水神の祟りが火事の原因という結果が出た。そのため過去に二、三度、堀の浚渫を行い「御断り(御理)」を立てて心願したというのである。ここでいう「不浄の物」は、単純にゴミ・ヘドロと理解してよいのではないかと思われる。中略しているが、当史料で大橋町庄屋・三郎右衛門と大橋村庄屋・一郎兵衛が願い出ているのは、この年(弘化二年・一八四五)に行った堀の浚渫が完全でなく、残りの不浄物を取り除く費用を捻出するため、晴天一〇日の見世物興業執行の許可願いであった。後者の史料でいう「ごもく」とは「芥」、すなわちゴミのことである。御茶屋は大橋の町場東端になることから、「ごもく捨て場」になるような状況があったのだろうか。