江戸時代、法令の伝達手段として重要なものの一つに、高札によるものがあった。
高札は法令・禁令などを板札に墨書し、町や村の辻や橋詰めなどの人目につきやすい場所に掲示したものである。法令や禁令などを掲示することは、古く奈良時代末から見られるが、江戸時代の高札につながるものは、室町時代の徳政令や撰銭令などの高札にその系譜を求めることができる。江戸時代の法令は幕府法(公儀御法度)と藩法(自分法度)に大別されるが、高札も公儀御高札と自分高札の区別があった。重要視されたのは公儀御高札、つまり幕府の発した法令・禁令の記された高札である。このことは幕府領に限らず大名領の高札でも同様であり、「大高札」と呼ばれる五枚の公儀御高札(親子札、毒薬札、駄賃人足札、切支丹札、火付札の五枚)などが、高札場において主流の位置を占めた。
江戸時代の高札は、ただ板札に法令・禁令を書き、その内容を庶民に告げ知らせるものである以上の意味を持っていた。高札に書かれた法令・禁令の文章は簡潔で、また書かれた文字も、文字通りお手本であったから、寺小屋などにおいて教科書的に使用されたのである。また、高札及び高札場には、幕府を頂点する国家権力を誇示するものとしての役割があった。そのため高札場は石垣または土盛りをして周囲より一段高くし、管理には町や村の地方役人があたったのである。
⇒「大橋村 行事村 宮市村見取図」を見る…高札場(行事村)