他領でも同じであったろうが、小倉藩領の高札場の施設規模とそこに掲示される高札の枚数は、宿駅とそれ以外の村とでは違いがあった。
宿駅とは、街道沿いの二、三里ごとに、公用人馬継ぎ立てを行う特命を課せられた村のことである。小倉藩の宿駅には本宿と半宿があり、本宿は公用全般の人馬継ぎ送りを行い、宿役人である問屋が置かれた。また、本宿には一戸につき宿役給三斗が与えられるなどの特典があった。半宿は藩用の人馬継ぎ送りのみを行う村で、問屋は置かれず、庄屋など村役人がその代役を果たした。
小倉藩における高札場の建物は、宿駅の場合、幅二間・奥行き一間の瓦葺きで、壁は漆喰の白壁であり、前面には腰格子が付けられていた。宿駅以外の町や村の高札場建物は、構造に違いはないが、大きさは異なり、幅一間・奥行き三尺であった。ただ、高札場建物の大きさは、とくに宿駅の場合は所によって若干異なっていたと思われ、仲津郡山鹿村(本宿)の高札場には安政四年(一八五七)に幅二間・奥行き五尺の建物が建っていたことが分かる(長井手永大庄屋安政四年日記二月一六日条)。高札の枚数も宿駅とそれ以外の町・村では異なり、宿駅が幕府の高札九枚・藩の高札三枚の合計一二枚であったのに対し、それ以外の町・村の場合は、幕府と藩それぞれのものが一枚ずつであった。ただ、掲示される高札の枚数は、とくに宿駅の場合は、時期によって異同があったと思われ、仲津郡山鹿村の高札場には安政四年(一八五七)に一四枚の高掲示されていたことが知られる。