国作手永大庄屋役宅

456 ~ 456 / 898ページ
 「手永」とは、十数カ村をまとめてつくった行政区であり、その長を大庄屋といった。村の上位に行政組織を設けることは他藩でも行われていたことであるが、その行政組織の名称は藩によって様々であった。中津の奥平藩のように「組」と呼ぶところは多いが、長州藩の「宰判」のように独特な呼び名もある。小倉藩の「手永」も珍しい部類に入るだろうが、これは細川氏の時代に設けられた地方支配の組織・名称を、惣庄屋(後の大庄屋)といった人的なものを含めて小笠原氏が引き継いだものである(第二章第二節を参照)。
 手永の範囲、大庄屋の職能・職権については、小笠原氏の時代になっても変遷があったものと思われる。仲津郡の大庄屋(惣庄屋)は、細川時代の元和八年(一六二二)の段階で、大村次郎左衛門、国作善七郎、伊良原二郎兵衛、帆柱儀左衛門の四人である。また、寛永九年(一六三二)の段階では、元永五郎兵衛、永井儀左衛門、国作九郎左衛門、伊良原次郎兵衛の四人である。
 細川時代の惣庄屋には、必ずしも一人一人に担当区域が割り当てられていたわけではない可能性もあるが(例えば複数の惣庄屋による共同行政。永青文庫「元和年中之御帳」など参照)、小笠原氏の入部後、おそらく一八世紀前半期には、ほぼ固定化したものと考えられる。大橋村は国作手永に属した。
 仲津郡国作村(現豊津町)は、細川時代から惣庄屋の居村であり、後には国作手永大庄屋の役宅が設けられた(具体的な所在地未詳)。役宅の建設年代は不明だが、小笠原入部後、大庄屋の転勤制など地方支配機構の固定化が推測される一八世紀前半ではなかろうか。
 仲津郡国作手永の場合、商業・経済の中心は大橋村にあったが、手永の行政に関しては国作村に中心があったということになる。しかし、大橋村には御茶屋、郡屋、御蔵、手永宿といった公的施設があり、行政的にみても明らかに大橋が仲津郡の中心であった。時代が下り、大橋村が経済的に発展すればするほど、国作村に大庄屋役宅があることは不便に思われたことであろう。
 
     ⇒「大橋村 行事村 宮市村見取図」を見る…国作手永大庄屋役宅