大橋に所在する公的施設に「御蔵所(郷蔵)」(大橋御蔵)があった。所在場所は、行事川(長峡川)沿いの通称地名・下正路、現行橋小学校の敷地である。この大橋御蔵は年貢米(二朱五厘米など雑税を含む)を納める所であり、反別麦といった備荒貯蓄も蓄えられた蔵である。仲津郡の年貢米はここに一旦入れ、小倉城下へ回漕された。行事川の対岸には京都郡の「行事御蔵」があったが、機能としては大橋御蔵と同じである。
仲津郡には沓尾村にも御蔵所(沓尾御蔵)があり、村ごとにどちらの蔵へ年貢を納めるかが決められていた。国作手永では、大橋御蔵に納めるのが大橋・福富・竹並・矢留・惣社・国作・国分の七村、沓尾御蔵が田中・徳政・有久・呰見・下原・綾野・上坂の七村であった。
なお、その他の郡における御蔵所の所在地は、田川郡が採銅所(高原)・糒・糸・赤池(新所)・油須原、築城郡が椎田、上毛郡が八屋・宇島であった(『豊前旧租要略』など。なお企救郡は城下の蔵へ直接納める)。このうち、田川郡の年貢米は主に糒の御蔵に一旦入れて、そこから川舟で赤池を通り、若松に出て小倉へ運んだが、赤池から先は黒田領だったので、何かと差し支えた。そのため、文政年間に石坂峠の水路開削が試みられるが未完のまま終わり、その後、文久元年(一八六一)に田川郡下赤村の庄屋帆足通蔵と添田村の高瀬兵蔵が今川石坂峠の舟路を完成させた(一二月一日完成)。以後、伊田手永・添田手永の年貢米については今川を川舟で下し、行事御蔵所に入れることになった(『犀川町誌』など)。今川を下ってきた川舟は、大橋まできたところで門樋をくぐり、「船通溝」(現船路川)を通って行事川に出たのである。