①元禄七年(一六九四) 貝原益軒(かいばらえきけん)『豊国紀行』 |
五月五日 みの島の南のふもと海辺に、漁人多し。此浦にて魚を多く取て、隣国につかはし売。……其北の方に大橋と云町有り。小倉城主の館有。 |
②元禄十一年(一六九八) 各務支考(かがみしこう)『西華坊梟日記』 |
六月二日 大橋 この日元翠亭にいたる。 |
③天明三年(一七八三) 古河古松軒(こしょうけん)『西遊雑記』 |
五月三日 大橋の町に至る……大橋より近一里に箕島といふ名所有り、風景の地なり。今は地つづきとなりて塩浜となる |
④享和二年(一八〇二) 菱屋平七『筑紫紀行』 |
四月二十一日 よばる村農家五六十軒あり。半里計行てきゃうじ村。農家漁者の家二百軒計の中に、酒造りて売大なる家もあり。石橋をすぎ川を渡りて、一丁計にして大橋町に至る。竪横に家三百軒計あり、町の中程に郡境のしるし立り。 |
⑤文化六年(一八〇九) 伊能忠敬(いのうただたか)『測量日記』 |
一月十九日 大橋村止宿油屋太四郎、別宿肥後屋藤左衛門 |
まず貝原益軒の『豊国紀行』によると、遅くとも元禄年間には大橋が町場になっており、そこには藩主の「館」が建てられていたという。この「館」とは、現在の中央公民館の位置にあった「御茶屋」のことであろう。先の絵図では外郭しか分からないが、豊津高等学校錦陵同窓会所蔵小笠原文庫の「大橋御茶屋図」には、建物や門、竹・杉垣、堀など、施設の規模が詳細に描かれている。
ついで松尾芭蕉の門人十哲の一人各務支考は、元禄一一年六月二日に、大橋の「元翠」宅に立ち寄った。この元翠なる人物については、大橋村の開発者でもあった井上吉左衛門のことで、屋号を「苅田屋」と称し、綿実座を免許されていたことが知られている(古賀武夫「豊筑俳諧紀行」『西日本文化』一五三号)。そして、宝永二年(一七〇五)に九州を巡遊した、蕉門の堀部魯九(孤耕庵)編纂『春鹿集』には元翠のほかに、大橋からは李門・去流・柳甫の句も収録されている(大内初夫『近世九州俳壇の研究』一九八三)。一七世紀後半の大橋には、松尾芭蕉門人や蕉門俳人と交流をもつほどの人物が居を構えていたのである。近在の俳人居住地を見ると、小倉・中津城下町以外では、椎田・長洲・宇佐など、在郷にあっても町場となっている所であり、大橋も同様の性格を有していたものと思われる。
天明三年(一七八三)の古河古松軒の後、享和二年(一八〇二)の菱屋平七によると、「きゃうじ村」(行事村)には農家・漁者合わせて二〇〇軒余の家がある中に、酒造・販売を手がける「大なる家」もある。そして長狭川に架かる石橋を渡って一丁(約一〇九メートル)行くと「大橋町」で、縦横に三〇〇軒余の居家が軒を連ね、町の中ほどに京都郡と仲津郡との郡境石が立っている。行事は大橋ほどではないにしても、大きな酒造家があり、町場の様相が見えているようである。大橋は確実に町場が出来上がっており、幕府測量方の伊能忠敬一行は文化六年(一八〇九)、屋号を持つ商家の油屋太四郎宅と肥後屋藤左衛門宅を宿所にしている。
このように、旅行者の紀行文から、当市域の大橋と行事が、在郷町の性格を有していたことが窺えよう。
⇒「大橋村 行事村 宮市村見取図」を見る…郡境標柱