しかし「村」であっても、住人の中に「町人」の肩書で登録されている例もある。田川郡の糸田村・金国村・添田村、仲津郡の今居(今井)村、下毛郡の落合村、宇佐郡の龍王村である。そこで「町」と「村」の違いを、田川郡の事例で窺ってみると、「町」の構成は、「町人」の肩書を持つ戸主を主体にし、町には石高が付けられていないのに対して、「町人」を抱えながらも「村」とされている在郷は、「百姓」名義の戸主が主たる構成員となり、村高が記されている。田川郡の各村総集計において、「町人」はすべて「本百姓・小百姓」名義に合算されているが、郡毎の集計のみを書き上げた「豊前国并豊後国国東郡・速見郡人畜改帳総目録」では別に記載されているなど、記載方式が不統一である。また、郡によっても調査・記載方法が異なっており、龍王村の場合は「本百姓・小百姓」七人に対して、「町人」は二四人(郡集計では二〇人)と圧倒的に多数であるなど、検討課題は多いが、「町」と「村」の違いを次のように考えておきたい。
「町」として登録されたのは、その地域全体が町場の性格を有していたからである。「町人」を抱えながらも、「村」と記されている所は、一部に町場的性格を持ちながらも、地域全体としては農業優勢の土地柄であり、石高掛りの役を負担させられる性格なのである。
このように見ていくと、寛永年間大橋には藩主の「御茶屋」が設置されていたようであるが(「日帳」寛永七年六月五日記事)、「小倉藩人畜改帳」では「町人」や「商人」の記載はなく、いまだ在郷町といえるほどの町場は建設されていなかったものと思われる。