商家多く、町割をなして繁昌の地也、享保の頃迄は、大橋村とて、在郷にて有しが、今賑しき所となれり……川を堺ひ、行司と相対して、此所富家多し、よき市町也
右書によれば、大橋は「享保の頃」(一七一六~三六)までは「在郷」であった。すなわち町場として整備されたのは享保以後ということになる。しかし、先に見た福岡藩の儒学者貝原益軒は、元禄七年(一六九四)の『豊国紀行』に大橋を「町」として記述している。また『京都郡誌』に収録されている「大橋町始発之事」と「豊橋柱」(ともに成立年不明)の記述から、要点を整理すると、次のようになる。
大橋は小倉城下町から中津城下町への往来筋にあたるが、商人はいなかった。大橋村から両城下町までは距離が遠く、「質物或は諸用等」の運搬・調達に不自由であった。そこで大橋村に住む井上吉左衛門という者が、毎月六斉の薪市開催と、酒場一軒の建設を藩に願い出、あわせて町場の整備を上申した。その結果、延宝二年(一六七四)四月に藩の許可が下り、その後追々に町並みができ、商売も繁盛することになった。
右の井上吉左衛門が俳号「元翠」を名乗った人物で、商家としては「苅田屋加助」を通称にした。史料的に十分とはいえないが、大橋の場合は、一七〇〇年前後から村の中にも、徐々に商売を生業にする者が現れ、享保頃には町場が出来上がっていたものと思われる。
大橋村に町場が形成された時期については、前記したところであるが、村に商人が誕生する経緯はどのようなものであったのだろうか。小倉藩においては、行政面で町奉行が統括するのは城下町だけである。徳川時代は一般に、士農工商の身分制社会といわれるが、農村部では、鍛冶屋・紺屋・大工などの職人(工)、酒屋・魚屋・塩売りなどの商人(商)も、村に居を構えている限りは郡奉行(筋奉行)の統括下に置かれる。そして、わずかでも田畑耕作地を持てば、専業農家と同じように、農家(農)としての年貢や諸役を負担せねばならない。