在郷で商人になる経緯は、どのようなものだったのであろうか。まず、当市域行事に本拠を構え、藩主御用聞きをも勤めた、小倉藩切っての在郷商人飴屋の来歴は大略次のようである。
飴屋は本姓を玉江(たまえ)というが、その正確な出自など、初期の事歴には不明な点もある。同家では法名宗泉(寛文六年=一六六六没)を初代としており、二代の法名休哲(元禄七年=一六九四没)が通称を弥右衛門から彦右衛門と改め、以後同家の当主は代々彦右衛門を通称にした。そして三代法名宗利(延宝八年=一六八〇生、寛保三年=一七四三没)の時代、宝永六年(一七〇九)に飴商を始め、当初は屋号を布袋屋(ほていや)と称した。のち享保年中(一七一六~三六)に屋号を、飴屋に改称したという。「行事飴屋繁昌記」(友石孝之氏、『美夜古文化』一三号)には、この彦右衛門は「百姓の片手間、この飴を製しては遠近の人に売りひろめて行」き、「巨万の富を得た」と記されている。すなわち、飴の製造・販売は、農業の片手間に始めたものであった。
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