次に、大橋村の商人柏屋(かしわや)について、柏木昌之助氏「柏木勘八郎(かんぱちろう)の系譜」(『美夜古文化』二一号)を参考にして見ると、同家はもと小笠原家臣で大塚姓を称していたが、助右衛門直行の子息彦兵衛直定(享保一四=一七二九年没)の時代から母方の姓柏木を名乗るようになった。次代の勘八郎直則は、家督を弟に譲って諸国を遊歴し、しばらく長崎に逗留したのち帰省して、一時は企救郡宮尾(みやのお)村に住した。そして元禄年間(一六八八~一七〇四)に居を大橋村に移して木蝋(もくろう)商を始め、当初は長崎屋を称した。のちに屋号を柏屋と改称し、代々当主は勘八郎を通称にした。同家の過去帳には、大橋が小倉城下町と中津城下町のほぼ中間に位置することから、同地が将来繁栄することを見越しての移住であったという。すなわち柏屋の場合は、農業の片手間ではなく、商売を目的に居を移したということになる。
⇒「大橋村 行事村 宮市村見取図」を見る…柏屋