商人への道

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 今のところ、大橋・行事で屋号を持つ商家について、その出自を正確に追跡できる事例は極めて少ない。そこで、「国作手永大庄屋日記」の記事から、商売許可を得る事例を見ておくことにする。
 まず文政七年(一八二四)七月、大橋村宗右衛門が「造酒場」建設を出願するに際して、酒造収入の「余力」を農業に投下することを述べる。弘化二年(一八四五)五月の同村喜八は、家伝薬販売について、近頃病気がちで「農業荒働」が困難になった、そこで家伝薬販売による収入を「農業助足」にしたいという。嘉永二年(一八四九)二月、同村権之助(一七歳)は、近来足痛みで農業がつらくなったので、桶屋職を始めたい、その収益を農作業の諸費用に当てたい、という。
 このように、農民が商売や職人仕事を始めるについては、それを専業にするというのではなく、農作業に支障をきたす現状を補完することが条件なのである。これは他村においても同様である。
 例えば、嘉永元年の田中村権次郎と吉助は「塩商」を出願するに際して、「徳用を以て、御作方の仕入に仕り度」という。同二年徳政村元右衛門は、「農業手透の節」に鍛冶職を行い、その収益は農作業の費用の足しにするという。商売・職人業とも、許可が出れば鑑札が発給されるが、職種に応じて、「運上銀(うんじょうぎん)」と称する営業税を納めねばならない。そして鑑札は相続が保証されているものではない。安政三年(一八五六)六月の大庄屋『中村平左衛門日記』に、次のような達しが記録されている。
 
諸商人札請の者ども、代替の者ハ御免札御取上ケニ相成、尤も余義無き訳合候ハヽ申し出候様

 
 すなわち、当主が交代(代替)したときは、鑑札は取り上げられる。ただし、特別の訳があって相続を必要とする場合は申し出ること、というものである。安政四年八月、国作村勝蔵の例(「国作手永大庄屋日記」)は次のようであった。
 勝蔵は近来病気がちで、農作業が思うようにならない。勝蔵の住まいは「往還筋」に面していることから、「雑菓子商」を許可され、飴・菓子・草履・草鞋などを販売して、生計の足しにしてきた。しかし昨年代替わりしたために、商売の「御免札」(鑑札)を返却した。この度改めて、「猪口酒商(ちょこざけしょう)」を開業して、往来通路の者へ「店売」し、その収益を農作業の足しにしたいと、鑑札許可を申請した。しかし、この申請は認められなかった。不許可の理由は判然としないが、代替(隠居)後に、しかも町場として認定されていない村で、店を構えることに問題があったのではないだろうか。