町場の商人

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 先の「代替の者ハ御免札御取上」については、「宿町ハ格別」とあり、農村でも町場の商人や職人は、相続が認められるのである。嘉永六年(一八五三)八月、大橋村の甚助が、「近来勝手向不如意」のために、「洞瓶」販売を申請したところ、「洞瓶」の意味が不明瞭、および「洞瓶」商売はこれまでに例がないとの理由で許可されなかった。しかし、仲津郡筋奉行の三宅円司は大庄屋国作甚左衛門に対して、甚助は大橋村でも「町分ニ住居」していることから、「商店札」を申請させ、瀬戸物類の商売をさせてはどうかとの意見を述べている。
 藩はこれより先の天保四年(一八三三)八月、商売「御免札」の許可条件として、次のように達していた(「国作手永大庄屋日記」)。
 
宿町の外是迄百姓分のもの、病身申立て、御免札を以て小商いたし来り候者ども、田畠三反宛は作方申付べく候、商計ニて作方致さず候ものどもハ、已来御免札取揚げ申すべき事

 
 すなわち、「宿町」以外に居住する「百姓」名義の者で、病気を理由に鑑札を受けて商売をしていても、田畑三反は耕作をしなければならない。商売だけのものは、鑑札を取り上げるというのである。商売だけで生計をたてることが認められているのは、「宿場」と「町場」に限られていた。一般の農村では、まず田畑の耕作が優先し、商売はその補完に必要範囲で許可されるものということになる。ただし、「宿町」であっても、村方の人口が少ない場合は、一般の村と同様に、三反の田畑耕作を求められた。